1 結論:努力は嘘をつかない。
①僕の今の実力
言語学の中でも最も難しいと言われる Chomsky の著作を、それほど難しいと感じなくなりました。
下の引用の通り、Chomsky (1994) “Bare Phrase Structure” ごときなら、楽々読めます。
また、Chomsky の2021年の論文を月曜に印刷したのですが、二日で読み終わりました。
この論文に関しては、自分は彼の理論を全て吸収できたとは言えません。
ただし、英語そのものは非常に平易だと感じました。
多読を続けていて、顕著に楽になったのが、Chomsky の「地の文」の所です。
「地の文」というのは僕の造語です。
Chomsky の論文の構成は大体以下の通りです。
・序盤:言語とは何なのか。生成文法とは。
・中盤:生成文法の理論を用いて実際に言語を分析する。
・終盤:今回の分析での課題。この理論で解決できない問題。
中盤以降の分析には、”{P’, Q’ {P, Q}] “(Chomsky 2021: 20) のような記号が用いられます。
この部分は、ある意味数学書の数式の部分や、化学の専門書の化学式の部分と通じるところがあります。
英語が苦手でも、専門知識に明るいと内容を理解できる可能性が高いです。逆に英語が得意でも、その理論が分からなければ読めません。
一方、Chomsky の論文の序盤は英語しかなく、他の記号が一切ないので、真の意味での英語の読解力が試されます。ここを僕は「地の文」と呼んでいます。
昔の僕は、記号的な理論が好きで、地の文は難しすぎて意味不明だと思っていました。つまり、彼の論文の序盤は読めていなかったのです。
もちろん、論文の序盤にも目を通ししていましたが、英語が難し捨て何が書いているのか分からないので、決まって中盤から本腰を入れて読んでいました。
これが多読累計4500万語~5000万語の時ですね。
しかし、6000万語くらい読んだ今は、Chomsky の論文を読むと逆の気持ちになります。「PとかQとか使わないで欲しい」と。
これは、僕の思考能力が落ちているのか、英語の読解能力が挙がっているからそう思うようになったのか、よくわかりません。
これが今の僕の実力です。
②できるようになったこと
大体全ての洋書に手を出せるようになりました。小説などがその好例です。
『シャーロックホームズ』の少し難しいところでも振り落とされにくくなりました。
大切なのが、多読5000万語の時には読めなかった専門書が読めるようになった点です。
Roberts (2019) Parameter Hierarchies and Universal Grammar 等は、ずいぶん楽に読めました。
また、英語論文にも立ち向かえるようになってきました。
多読5000万語の時は主に英米で出版されている教科書しか読めなかったので、かなり進歩しています。
③進歩の要因
勿論日々地道にやっていたから進歩があるのですが、大きかった要因もあります。
しりに火が付いた状態で英語論文を仕上げたことです。
生成文法という学問分野が、英語の文献しかなく、それを読んで分からなかったらそれで終わりという学問分野です。
僕はそれを専門としており、最近論文を1本書き上げました。
参考文献にはもちろん英語の物しか使わず、30点くらいの文献を挙げました。
40ページの論文を書き上げたのですが、1から全て自習で学んだことだったので、なかなかハードでした。
さらに、自分の未来が全てその論文にかかっているという状況でした。
そんな状況で戦っていたからこそ、僕の実力はめきめき伸び、今に至ります。
僕はこの論文で世界レベルの連中と戦っています。そういう世界レベルの戦いを経験したからこそ、僕の実力は大きく伸びたのです。
2 昔の僕の実力
①高校時代の僕:長文がだめで偏差値45
さて、今でこそ世界レベルの人たちを相手に英語論文でバチバチ戦っている僕ですが、高校時代は英語が悲惨な状態でした。
それもそのはずで、京大志望の受験生にとって、英語とは、現代文、古典、漢文、数学、英語、日本史、世界史、理科(地学)の中の1科目に過ぎません。
9分の1なのです。
なので、英語に特別な思い入れもなければ、そんなに多くの勉強時間を割くこともできません。むしろ、英語にばかり注力すると他の科目が疎かになって、京都大学には落ちます。
僕は高校時代2人の英語の先生に教わっていました。そのうち一人は、生徒が授業中に耳栓をして数学の内職をするような先生でした。もう一方は竹岡広信というすごい先生でした。(そこは僕のラッキーなポイントでした。)
僕は言語学者の片鱗みたいなものをその当時から見せていて、長文は苦手だけど、英文法や語源が好きという趣向を持っていました。
長文を読んでも全く理解できないし、制限時間内に読み終えることはまずありませんでした。
あまりに英語長文が分からないので、模試の途中で寝てしまうこともありました。
確か、寝ていなかった模試でも、高3時の英語の偏差値は45でした。長文が苦手で、全国平均を下回り始めたのです。
②大学学部時代:洋書が読めずに鬱に。自殺を考える。
このセクションの中身を書かずとも、見出しが全てを語ってくれています。
大学に入ると、高校時代とは違って、真の学問というものと対峙することになります。
そして、学問というものが「どれだけ英語を読むのか」という戦いでした。
それが全くできなかった僕は、このセクションの見出しが表すような状態まで追い込まれました。
そういう経験をした僕でも、多読を重ねることで、洋書に太刀打ちできるようになったのです。
努力は嘘をつきません。
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