1 勉強は贅沢です。
林修先生が著書で著書で言う通り、勉強は贅沢です。
勉強をしているともちろんしんどいことはあります。しかし、ある程度やり続けると面白さも見えてきて、さらに自分の能力値も上がります。
こんな素晴らしい勉強を広めていこうというのが普通の人の発想になるのでしょうが、僕は「勉強の良さが分からない奴に勉強をやってほしくない」というのが本音です。
勉強には欠点もあります。最大の欠点はやはり、勉強をするのにかなりお金がかかることでしょう。
例えば、僕の専門である生成文法をやるためには、洋書や英語論文を読み進めるしかありません。
それを如実に物語るのは僕の参考文献リストです。(以下のリンクからアクセス可能。)
これを見れば大体どんな感じの文献が必要なのかは大まかにイメージできるはずです。
さて、それを踏まえたうえで、洋書は廉価版であるペーパーバック版でさえ一冊5000~6000円です。ハードカバー版なら一冊2万円くらいです。
また、生成文法をある程度まともにやるには、Linguistic Inquiry 等の学術誌に掲載されている論文を「当たり前」のように読んでいく必要があります。
英語力に関しては6000万語くらい多読すればどうにかなるので、ここは練習で解決できるところです。
しかし、こうした学術誌に掲載されている論文を閲覧するには、①その論文を買うか、②その学術誌を定期購読する、しかありません。
参考までに、①「論文を買う」場合は一本45ドルくらいです。つまり、論文一本5000円くらいはするのです。また、②「学術誌を定期購読する」場合は、学術誌1つ当たり年間2~3万円くらいかかります。
つまり、一人で独立して学問をするためには、それくらいの額を出すのを厭わない経済力と覚悟が必要なのです。これを贅沢と呼ばず何と呼ぶのでしょうか。
僕は今、京都大学で学生をしているので、実質的に②「定期購読する」という方法でLinguistic Inquiry 等の数多の学術誌に無料でアクセスできています。
というのも、京都大学がこういった学術誌に年会費を払って定期購読してくれており、教員や学生は無料で使える仕組みになっているのです。
ありがたい仕組みです。
大学などの教育機関(研究機関)に所属しているなら、こうした制度が使える可能性は非常に高いです。
どの大学に所属しているのかどうかでアクセスできる学術誌の数や種類は大きく変わってくるはずですが、とにもかくにも無料で使えるものは積極的に使うに越したことは無いのではないでしょうか。
さて、問題はどの教育機関(研究機関)にも所属していない場合です。
僕も今は京都大学という機関に守られて学問を継続できていますが、卒業したり、学費が払えなくなって退学したりすると、たちまち先ほど述べたような(論文一本5000円越えという)費用を自腹で払い続けないと学問を継続することができなくなります。
これが「勉強は贅沢である」という言葉の意味です。
勉強はしんどいことも多いですが、その勉強を継続できる環境と時間的な自由に感謝して続けないといけないなあと思わされます。
2 無料で生成文法を勉強する方法
勉強(学問)が贅沢だということはもう分かって頂けたと思います。
そもそも、学問(勉強)をするには、「働かなくてもよい」時間的な自由が必要です。
もちろん、僕がかつてやったように、働きながらっでも勉強は可能ですが、朝5時に起きて娯楽も全てシャットダウンするという無茶な方法を強いてしまうため、万人にはおすすめできません。
そして、勉強を継続するためには、「働かなくてもいい時間的な自由がある」という前提と大きく矛盾する「お金をかけ続けられる」という絶対の条件を満たさねばなりません。
ゆえに、勉強は贅沢なのです。
時間もお金もふんだんにじゃぶじゃぶ使わないとできないまさに金持ちの娯楽なのです。
しかし、残念ながら僕はお金持ちではありません。
いつかは京都大学を卒業するか、学費が払えなくなって退学になります。
そのあと勉強を継続するためには、お金を稼ぐ必要があります。
この事実が僕にプレッシャーとなってのしかかっていました。
今はお金があまりかかっていないが、いずれ京都大学から出ていかなければならない時は必ずやってきます。その時、僕は自力で勉強を継続できるだけのお金を稼ぐことはできるのだろうか、という不安です。
ただし、真剣にやっている人には案外道は開けるものです。
生成文法に限らず、学問をやって行くには、普通の学術誌に載っている論文だけでなく、博士論文等も参照することもあります。
生成文法の世界で最も参照されることが多い博士論文はやはりMIT の物です。
MIT は長らく Chomsky が教鞭をとっていた場所なので、生成文法の拠点となっており、そこで書かれた博士論文は生成文法を題材にしたものが多いのです。
僕自身、今年(2022年)の夏ごろに初めて MIT の図書館のホームページから博論をダウンロードしました。
その時驚いたのが、全て無料だということです。
博論が無料だというのは MIT に限った話なのか、他の大学でもそうなのかは分かりません。
しかし重要なのは、MIT の博論は現時点で無料でダウンローできる点です。以下のリンクからダウンロード可能です。
Alumni and their Dissertations – MIT Linguistics
これは余談になりますが、MIT は他にもすごいことをしています。
上のページからは、Faculty (教職員名簿)へのアクセスも可能なはずです(2022年現在)。
全ての教員がやっているわけではないのですが、教員自らが書いた論文を無料で公開しているケースが存在します。
Faculty のページに載っていない場合でも、先ほど言及した MIT の図書館のホームページで、 MIT の言語学教授陣が書いた論文が無料で公開されているケースが結構あります。ピジン・クレオール関連の大御所である Michel DeGraff はこの方法で自身の著作の一部を無料公開しています。
これは本当にすごいです。
世の中、言語学をうたうエセYoutube チャンネルなんてものがあります。こんなものを見て勉強している感に浸るよりは、こうした無料で公開されている良質な物を摂取した方がいいと僕は思うのですが、脳がやられちゃっている人は違う判断を下すのでしょう。
また、某エセ言語学チャンネルは、一か月1000円で加入できるサポーターコミュニティー(笑)とやらも持っているそうです。脳が何かに侵食されている人以外なら、このエセ言語学ラジオとやらに1000円溶かすよりも、MIT の教授が書いた無料で公開されている論文が良いという正常な判断が下せるはずです。
毎月1000円をどぶに流すよりも、MIT の教授陣が書いた無料の論文を摂取しましょう。
話は元に戻って、上のリンクから無料でダウンロードできる MIT の博論について語りましょう。
なにぶん数が膨大なだけに、僕自身全てに目を通せてはいません。むしろ、全て読み切るとしたら、それは何年も先の話になるでしょう。
なので、僕自身が通読した数本の論文を元に語るとしましょう。
MIT 言語学科の博論は既に述べた通り生成文法について書かれたものが多いです。
MIT 言語学科の博論の特徴として大雑把に、
① 圧倒的な読みやすさ
② 圧倒的な親切設計
③ 圧倒的な情報量
④ 圧倒的な学説の緻密さ
が挙げられます。
①「圧倒的な読みやすさ」について
博論が読みやすいかどうかは、ぶっちゃけ著者によります。しかし、MIT の卒業名簿から分かるように、MIT 言語学科の歴代卒業生の多くは英語を母語としない人たちです。
僕がかつて多読スランプに陥った時の対処法に関する記事で書いた通り、英語を母語としない人が書いた英文は、語彙も構造も何もかも英語母語話者が書いたものより遥かに平易で読みやすいです。
なので、傾向として MIT の博論は読みやすいのです。
多読して自分の能力を上げるというのはスキルを上げるのと同義なので、かなり大変です。
今の僕はこうしたことを当たり前にできているので大変だとは思っていないのですが、ここは昔を思い出して語ります。
多読を続けても続けても実力はそう簡単には上がりません。無論簡単に上がる人も世の中にいるのでしょうが(IQ 150 以上の天才等)、僕はそうではありませんでした。
やってもやっても伸びなかったので、僕はひたすらやり続けました。
多読累計が1000万語になり、『ハリーポッター』等簡単な洋書が読めるようになりました。
(僕の同級生には帰国子女でもないのに高校生で『ハリーポッター』を原書で読んでいる人がいました。その人は京都大学卒業後スタンフォード大学大学院へ進まれました。僕は自宅警備員として、まぶしい思いで見送りました。)
多読累計が2000万語になると、『シャーロックホームズ』等の筋を知っている洋書が読めるようになりました。
多読累計が3000万語くらいになると、『エラゴン』シリーズ等、並よりちょっと上で、かつ筋を知らない洋書が読めるようになってきました。
多読累計が4000万語くらいになると、Cambridge が出している言語学の教科書を読めるようになってきました。リンクから例は見れます。
また、このころ Huddleston, R. and G. K. Pullum (2002) Cambridge Grammar of the English Language. を読破しました。
ただし、多読累計が5000万語に至った時も、Chomsky の著作にはなかなか歯が立ちませんでした。
それからも多読を続けるうちに、急に実力が伸びてきて、Chomsky の著作が読めなかった頃の自分がもうよく思い出せないくらいにはなりました。
要するに、ずっとやっていると、昔の自分がはや別人と思えるくらいにまでスキルが伸びてくるのです。
今の多読累計はもはや測定不能なのですが、おそらく6000万語くらいでしょうね。
今は運よく実力が伸びてきている時期です。この伸びる時期というのは、3か月に1回くらい来るラッキータイムです。なので、スランプに陥っている時の自分をもうはっきり思い出せないのですが、とにかくスランプに陥ったら、というか、多読をしている時の9割以上の期間はスランプになっているはずなので、「陥る・陥らない」という話ではありません。
とにかく多読をしていて、「もう駄目だ、全然実力が伸びない」と感じたら、読む英文のレベルを下げることを僕は提案しています。
具体的には、ある程度多読を積んで、『ハリーポッター』等簡単な洋書に進めた人は、一旦レベル付きの洋書に戻ってみるとか、それ以上の人なら、英語母語話者以外の人が書いた英文に当たってみるとか、そういった対処法が考えられます。
これらの方法は、いずれも僕が実践してきたものです。
例えば、僕の場合は、多読が行き詰った時、Cinque (2020) 等を読んで何とかしのいでいましたね。しかし、Cinque (2020) は専門書ということもあり、「分かっている人向け」の作品でした。なので、これを読むことが本当に休憩になっているのかがはっきり言って微妙でした。
もちろん英語母語話者が書いたものと比べると、Cinque (2020) は、はるかに簡単な文法で書かれ、語彙も英検1級レベルの平易な物に抑えられています。厄介な句動詞 (shell off の類)やイディオム的な定型表現(under the pipeline ) 等の表現は皆無で、まさに英語の教科書的な英語です。(この「英語の教科書的な英語」という表現の意味が分からなかった人は英語の経験値が低すぎます。)
なので、かつての僕は多読がしんどくなってきた時、 Cinque (2020) 等を読んでやり過ごしていたのです。
しかし、やり過ごすと言っても、さすがに Cinque (2020) は難しすぎたようです。やはり専門書ということもあり、ある程度の高いレベルの前提知識を要求してきます。
もっと他の息抜きが無いかと僕自身探っていました。
そこで出会ったのが MIT の博士論文です。
上述のように、MIT の博論の多くは英語母語話者でない人が書いたものです。
なので、英語そのものは非常に平易です。Pesetsky (1982), Hiraiwa (2005) 等はその典型例ですね。
MIT の博論は一本一本がそれ相応に長いので、多読量を稼ぐこともできます。そして何より無料です。
こうした平易な英語で少し多読に息抜きの要素を加えるのも一考かもしれません。
僕の場合は生成文法の前提知識があるので、専門用語を新しく覚える必要がほとんどないという利点も働いています。
皆さんはそれぞれの専門分野があるのでしょうから(量子力学、ゲーム理論 etc. )それらの分野の博論を探ってみてはいかがでしょうか。
②「圧倒的な親切設計」について
MIT の博論の特筆すべきところは、著者が使う理論についてかなり詳しく説明している点です。
これを説明するためには、他の論文との比較が必要でしょう。
僕はよく生成文法に関する論文を読みます。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、これがなかなか大変です。
何が大変かというと、その著者が使う理論的な枠組みを「知っている前提」で話が進むことが多いのです。
φ features が一体何か説明してくれる論文はかなり親切な方です。(φ features は person-number features を指している。person は「人称」で、he のperson feature は third person 「3人称」である。number は「数」で、he のnumber feature は singular 「単数」である。つまり、he の φ features は third person, singular である。)
また、probe, goal が何を指しているのか詳しく説明してくれる論文は少数派ですね。
それもそのはずです、使用する専門用語を全て丁寧に説明しだすと、それで何十ページも使ってしまうため、学術誌や論文集に載る論文でそうした説明を長々とすることはできないのです。
これはページの制約のせいで起こってくる現象です。また、いちいち専門用語を説明するのは著者にとっても骨が折れることになるので、「知っている前提」で書くことになります。
今の僕のように生成文法についての大抵の専門用語がなんとなく分かる人なら大きな問題なく読み進めることができるでしょう。
しかし、かつての僕のように前提知識が足りていない読者にとってはかなりハードルが高い戦いになります。
実を言うと、生成文法家の内の少なくない割合の人が意図的にこういう風に書いている可能性が高いです。
というのも、生成文法は言語学の諸分野の中で一番「パチモン」集がする分野です。
なので、認知言語学者等、他の分野をやっている人たちによく批判されてきました。
でも、こうした批判の多くは的外れでした。理由は、生成文法という学問自体発展途上で、物理学で例えるなら400年くらい前のニュートン力学より遅れています。
そのころ実際にあったことらしいのですが、ニュートン力学で説明できない建築というのがあったそうです。(当時分かっている)物理法則的には説明できない建築物が普通にあったそうです。(多分アーチ状の橋とかのことでしょう。)
なお、現代の物理学ではこうした建築物を説明できるそうです。
なので、認知言語学者等、生成文法家ではない人たちのやり口は、生成文法家の書く物をつまみ読みして、「あいつらの理論では、こうして実際に起っている言語現象を説明できない」と批判することがしょっちゅう起こっていました。
なので、生成文法家たちのかなりの割合で、生成文法をガチでやらなければ読解不能なように書くようになっていったのです。
結果として、認知言語学者などに批判のネタとして使われすぎたため、生成文法の著作は、敷居がべらぼうに高くなってしまったのです。
僕みたいに一度敷居を超えた側の人間にとっては、競争相手がほとんどいないブルーオーシャンになっていますが、かつての僕のような生成文法の全単元をやっていなかった側の人間にとってはかなり厳しい戦いと言えるでしょう。
やる意思はあるのに、全然歯が立たないのですから。
僕自身、この難点が無い生成文法の教材を探してきました。確かにあることはあるのですが、めちゃくちゃ高価なハンドブックの中の論文の一つだったり、なかなか勧めにくいというのが実情でした。
そもそも、生成文法家の中で意図的に難しく書くということをやっているのが Noam Chomsky 本人であるため、生成文法の世界でこの土壌が変わることはしばらくなさそうです。
さて、安価であり、なおかつ使用する専門用語や理論を詳しく解説しながら進んでくれる著作や論文はないものだと諦めかかっていた僕の元に、MIT の博論という最上の教材が現れました。
真剣にやっている者には道が開けるようです。
MIT の博論はどうやらページに制限がないため、事実上著者が納得いくまで自分が使う理論や専門用語の説明ができます。
さすがにある程度は前提知識を要求してきますが、他の学術誌に載っている論文に比べると雲泥の差です。
ぶっちゃけ、MIT の博論の説明を読んでから Chomsky の著作に進んだ方が理解がはかどるのではないかと疑うほどです。
具体例を挙げるとすれば、Hiraiwa (2005) の Agreement の説明と具体例を読んでから Chomsky (2000a, 2001) に進んだ方が Agreement に対する理解が深まるのではないでしょうか。
また、MIT の博論がこれほど親切設計になっている理由は、それが博論だからでしょう。
博論というのは、著者が自身が学位に値することを証明するために書く物です。
なので、自身が使う理論や用語をきちんと説できないようなら、きちんと分かっていないので学位に値しないという構図が成立しうるのです。
もちろん使用する全ての用語、理論を説明することは誰にもできませんが、博論という性質上、MIT の博論は用語の説明もかなり充実しており、親切設計になっているのです。
③「圧倒的な情報量」について
MIT の博論のさらなる魅力は、その情報量にあります。
MIT の博論を読んでいて僕が気づいたのは、Chomsky p. c. や Chomsky (2004 class lecture) というような記述が目立つことです。
p. c. というのは personal communication の略で、その人に直接聞いたことを意味します。例えば、Hiraiwa (2005) にも Chomsky p. c. が何度も出てきます。
これは、Hiraiwa が Chomsky に直接質問に行って、そこで教えてもらったことを論文に書いているか、もしくはメール等のやり取りで Chomsky から教えてもらったことを論文に書いているということです。
Chomsky (2004 class lecture)は、察しの通り、Chomsky が授業で言っていたことです。
初めて Hiraiwa (2005) を読んだ時、僕はこれがどれだけうらやましかったか。
確かに僕自身 Chomsky の言語に関する著作はほとんど全て原著で読んでいます。
しかし、何度読んでも分からないところはやっぱりあります。単純に Chomsky の説明不足ということもありますが、「ここが分からないので具体例を挙げてくれませんか」とか「この説は強すぎると思うんですけど」等、Chomsky 本人に聞くことはできません。
しかし、2008年に Chomsky が引退する以前の MIT ならそれができたのです。
なので、それ以前の MIT の博論はこうした、どの論文や著作を読んでも手に入れられない情報をふんだんに使用して書かれています。
もう Chomsky は引退して、アリゾナ大学に行ってしまいましたが、こうした MIT の博論に散見される Chomsky p. c. や Chomsky (xx. class lecture) を我々も使わない手はありません。
無料で使えるものはどんどん使っていきましょうというのが僕の主張です。
さらに、MIT の言語学科は(昔は)右を見ても左を見ても生成文法家という状況が続いたのでしょう。
多くの博論で、他の学生の p. c. が載ることも非常に多いです。これは本当い心強いです。
上述の通り、MIT の言語学科には各国の生成文法代表みたいな人たちが集まっています。
すると、いろんな国の言語を母語とする集団が出来上がるのです。
いろんな言語を生成文法的に分析できる集団ですよ。生成文法家としてこんなに頼もしい集団は世界広しと言えどここだけです。
こういう場所で、他の学生に「OO語の場合はどうなっているのか?」「具体例を挙げてもらえるか?」等の質問をすれば、どうやらきちんとした解答がもらえることは、Hiraiwa (2005)を読んでいて出くわす大量の p. c. から伺い知れます。
こうした、他の著作や論文でもなかなか手に入らない情報が p. c. の形で豊富にあることが MIT の博論の魅力です。
④「学説の圧倒的な緻密さ」について
これは実は著者によります。読んでいて、「ぶっちゃけこれは微妙だな」と思う物もあるので、全ての論文の学説が緻密だとは言えません。
しかし、大抵のものはかなり緻密な理論を提示してくれています。例えば、Hiraiwa (2005) の Supercategorical Theory 等はその例ですね。
Hiraiwa (2005) の主張は、名詞句も動詞句も元々はカテゴリーを持たない共通の語根から出来上がっているというものです。それがphase 毎にカテゴリーを決定する要素を受けとり、動詞か名詞になっているというものです。
Hiraiwa の理論の評価できるところは、「太郎がその本を批判する」と「太郎のその本の批判」といった名詞化 (nominalization) と呼ばれる現象をかなり厳密に説明しようと試みている点です。
名詞化は Chomsky が1970年くらいに提唱した理論ですが、さすがに説が古すぎますし、厳密さに欠く印象がありました。
Hiraiwa (2005) はそのアップデート版と言っても良い出来で、読んでいてかなり学ぶところがあります。
Hiraiwa (2005) 以外にも意欲的な理論を展開している論文は多いはずなので、MIT の博論から学ぶことは多いです。
理論言語学あるあるなのが、昔の理論が論破されていることが多い点です。
例えば、生成文法黎明期の rewrite rule (書き換え規則)なんか今やっている人は絶対にいないでしょう。
rewrite rule というのは、「文」を「名詞句、助動詞、動詞句」に書き換えるというものです。
さらに、「名詞句」を「冠詞、名詞」に書き換え、それぞれに語彙を挿入すると、the boy という名詞句が完成します。
また、「動詞句」を「動詞、名詞句」に書き換え、先ほどのように語彙を挿入してやると、play the guitar のような動詞句が完成します。
「助動詞」の所は、can とか will とか適当なものを入れてあげると、the boy will play the guitar という文が完成します。これが1960年代の rewrite rule (書き換え規則)でした。
しかし、これを今更やったところで、1990年代以降の Minimalist Approach には直接つながりません。
では、1960年代の古い理論で書かれた著作を読む意味はないのでしょうか。
自分もかつてこうした疑問を持っていました。例えば、先ほど紹介した Hiraiwa (2005)の理論も、2020年代基準では古いのです。
では、やる意味がないのでしょうか。
そんなことを言いだすと、2020年基準で最新の理論も、2030年や2040年くらいには古くなって、論破され始めます。では、理論言語学はやる意味がないのでしょうか。
今の僕は、どの年代の理論もそこそこやる価値はあると思っています。
理由は二つです。
① 今の理論を理解するための前提知識となっている場合が多い。
② 著者がその理論にたどり着いた論理的な流れを追うことも思考のいいトレーニングになる。
①「今の理論の前提知識になっている」について。
例えば、名詞化(nominalization)について。
Chomsky (1972) でおそらく初めて提唱された名詞化という概念は、
(1)Tom criticized the book.
(2)Tom’s criticism of the book.
(1)から(2)を作るプロセスでした。
(1)は「トムがその本を批判した」という、動詞を使った普通の文です。一方、(2)は「トムのその本の批判」という、明らかにその動詞と関係する名詞を使った名詞句です。
Chomsky (1972) は、nominalization (名詞化)という操作(operation) を想定し、(1)を(2)に変換していると主張しました。
(1)と(2)が関連しており、(1)から(2)ができているといったのはおそらく Chomsky が最初なので、それはすごいのですが、この理論は細かいところが詰められていない、言わばガバガバ理論でした。
(1)と(2)が何らかの関連性を持っているのは明らかですが、本当に(1)から(2)が生まれているのかはかなり怪しいです。
さらに、名詞化っぽいものとして、動名詞等も挙げられます。Chomsky (1972) は確かに、
(3)He plays the guitar.
(4)Him playing the guitar/ His playing the guitar.
(3)(4)の関連性を指摘していますが、まだまだ説が詰められていない感じはしました。例えば、(4)の主語の格の説明が足りていない感じはしていました。
ただし、1970年代は名詞化の理論自体ができたばかりなので、それがきちんと詰められていないという批判は、Chomsky に求めすぎだとは思います。
こういう名詞化という概念を知っていると、Hiraiwa (2005) の論点が良く分かります。Hiraiwa は、様々な言語の名詞化を説明する統一理論を提唱することあを目的として博論を書いたようです。
なので、日本語やアフリカの諸言語等の例が豊富に提示されています。
Chomsky の元々の理論の良くなかった点は、動詞を使った普通の文を元に名詞句を派生させるという発想でした。例えば、「彼のその本の批判」という名詞句の元には、「彼がその本を批判する」という文が存在すると仮定している点です。
Hiraiwa (2005) は、名詞でも動詞でもないカテゴリーを持たない語根から名詞と動詞を作り出しているという極めて美しい理論を提唱しました。
これなら、いちいち動詞を使った普通の文経由で名詞句を作らなくてもいいので、かなり省エネです。
また、普通の文と名詞句が共通する語根から生じているという装丁も、意味的、機能的な文と名詞句の共通点をとらえた好ましい理論です。
2020年代に入り、Hiraiwa (2005) の理論も多少古くなってしまった感は否めません。
例えば、Alexiadou, A. and Borer, H. (eds.) (2020) Nominalization: 50 Years on from Chomsky’s Remark. Oxford. Oxford University Press. という論文集では、いくつかの論文が、Hiraiwa (2005) のモデルは単純化しすぎで、それでは説明できない現象が色々な言語で観察されているという主張をしています。
では、Hiraiwa (2005) を読む意味はないのでしょうか。
それは違います。
Hiraiwa (2005) を批判する論文も、結局 Hiraiwa (2005) では説明できないことを説明するために、Hiraiwa (2005) の理論のアップデート版を提示しています。
つまり、Hiraiwa (2005) の理論をある程度知っている前提で論が進んでいきます。なので、過去の学説とその限界点(その学説が説明できないこと)を知っておくことは、今後の学説の理解のために必ずプラスになります。
②「その理論にたどり着く論理的流れを追うことはいいトレーニングになる」について。
これは僕がいちいち説明しなくてもいいのではないでしょうか。
ただ、一例だけ挙げておきます。
またしても Hiraiwa (2005) の話になるのですが、彼は名詞句(厳密にはDP 限定詞句)は phase であるという主張もしています。
その主張に至るまでの論理的な流れは、僕が把握している限りでは以下の通りです。
HP を phase とすると、phase impenetrability condition (Chomsky 2001) より、より上位のphase が edge にある要素を取り出したり、agree することもできる。
⇒ ただし、Chomsky 曰く(授業で言ったらしい)edge の edge にあるものは取り出しできないし、agree することもできない。
⇒ DP の edge からは要素を取り出したり、agree できるが、DP の edge の edge からは要素を取り出すことも agree することもできない。
⇒ よって DP は phase である。
僕が初めてこれを読んだ時、「それでいいのか?」と思ってしまいました。
なぜなら、「phase ならば edge の edge からの要素の取り出しや一致は許さない」とは言えても、「edge のedge から要素の取り出しも一致も許さなければ phase である」と言えるのでしょうか。
「A ならば B である」と言える時、「B ならば A である」と言えるのでしょうか。
「人間ならば老ける」とは言えても、「老けるなら人間である」とは言えないでしょう。
僕は論理学をやったことが無いので、正直ここらへんは微妙なところです。しかし、こうやって結論に至るまでの論理展開を追う流れが自分が論文を書く時のトレーニングにもなるのでしょう。
よって、1970年代や80年代の古い論文であっても(もし時間があれば)読む価値はあると言えます。
3 まとめ
学問とは贅沢であり、「働かなくてもよい自由な時間」を要求しつつも、「お金をかけ続けられる」ことが学問を継続するための条件になっている。
その証拠に、学術誌に載っている論文は一本当たり45 ドルほどであり、洋書は廉価版のペーパーバックでさえ一冊6000円くらいする世界である。
それでも、MIT の博論や、MIT の教授陣が書いた素晴らしい論文が多く web 上で無料で公開されており、これを利用しない手はない。