1 図書館ぶらり一人旅
今、僕はレポート課題に取り組んでいます。
やはり今期のレポートも全て英語で書くことになります。
レポート執筆時にあるあるなのが、なかなか着想が湧かないことです。
これはスイス人の言語学教授が言っていたことで、僕も賛成しているのですが、「書けなくなった時、最もしてはいけないのは、そのまま書き続けようとすること」なのです。
アイデアが尽きてきたとき、あるいは、筆が止まってきたとき、一番やっちゃいけないのが、そのままごり押しで書こうとすることです。
そういうことをすると、結局 YouTube 等で時間を浪費してしまったりします。
潔くPC を離れ、ジョギングとかをした方がいいですね。
そして今、僕はアイデアに詰まっています。筆が止まってきているのです。
それもそのはず、今僕が取り組んでいるトピックは、「世界英語」というものです。
社会言語学的で、生成文法とは直接の接点はありません。
なので、生成文法ばっかりやってきた僕からすると「あ、引き出しの数が足りない」となります。
そこらへんは、まあ、今読んでいる本で補強するので何とかなりそうです。
さて、こうして何度も筆が止まる中、図書館の中でジョギングはさすがにできません。(たまに外に歩きに出たりはしている。)
そこで最近するようになったのが、図書館で普段僕が行かないようなセクション巡りです。
筆が止まって、もう執筆ができなくなってきたころ、「そろそろ歩きに出かけるか」と、PC から離れ、図書館をうろつくのです。
ここで洋書の言語学セクションに行ってしまうと、普段やっていることと変わらないので、洋書の文学のセクションに行ってみたり、もしくは、和書のセクションに行ったりします。
そういえば、大学院生になってから(2022年~)、和書のセクションはほぼ行かなくなっていました。
学部生のころ(~2018年)は和書のセクションにしか行っていなかっただけに、自分でも大きな変化を感じます。
京大の図書館の和書のセクションはまあまあ充実しており、英文学等の翻訳版がまあまあそろっています。
自分は学部時代英文学専攻だったので「こんなのやったな~」と懐かしい気持ちに浸れました。
学部時代は文学が嫌いで退学も考えたほどでしたが、『アーサー王伝説』等を紐解いてみると、一人で読む分には面白そうだと感じました。引退後はこういう本を原書で読んでもよさそうですね。
さて、普段絶対に行かない和書の言語学セクションにも足を運びました。
予想通り、多くの和書は質、量ともに洋書に及ばないことを確認できました。
確かに、国語学(研究対象が日本語の言語学)に関しては和書は洋書に比べ何枚も上手です。国語学関連の和書は、Japanese linguistics とタイトルにつく洋書に比べ、内容の質、量ともに圧倒的に優れています。
まあ、それは当然でしょう。
しかし、それ以外は和書の惨敗です。
しかし、なかなか健闘している和書も確かに存在しました。
例えば、
『岩波講座 言語の科学〈6〉生成文法』
これなんかはなかなかいいのではないでしょうか。
確かに、訳語が紛らわしいところあります。「辞書」という用語が普通に出てくるのですが、これは lexicon の訳でしょうね。lexicon とは、我々の脳内にある全単語のストックみたいなものです。
これを「辞書」と訳すとは、なかなか紛らわしいことをしてくれます。
他にも「うーん」という部分もありましたが、「pro は伝統文法家のいう了解済みの主語に対応する」等、伝統文法と生成文法の対応を示そうという、僕が普段読んでいる洋書でもなかなかお目にかかれない珍しいアプローチをしており、意外と勉強になりました。
記述主義的で、細かな意味の違いなどに気を配る伝統文法と、そうした意味の違いを説明するための理論である生成文法は本当は切り離せる類のものではありません。
しかし、僕が読んでいる洋書の多くは切り離しているように映ります。例えば、僕が今読んでいる Diagnosing Syntax は、生成文法の理論にかなり傾いてしまっていますね。
その一方で、伝統文法と生成文法を少しでも対応させようとしている『岩波講座 言語の科学〈6〉生成文法』はなかなか見るべきところがあるのではないでしょうか。
さらに、この本は用語説明も簡素ながらしっかりしています。僕も洋書しか読んでおらず、あいまいな理解で進んでいたところがあったので、学ぶところはありました。
この本は数名の著者により執筆されていますが、その一人が福井直樹という人です。
この人は MIT 卒で、おそらく現在日本人で生成文法ランキング1位くらいなのではないかということを聞いています。
2 棚ぼた
福井直樹という人が生成文法の世界ですごい人だというのは以前から聞いていました。
大学院の入試には面接というのがあるのですが、僕はそこで提出した論文について教授陣から色々なコメントをもらっていました。
ダメ出しとしては、生成文法なのに参考文献リストに Chomsky の著作が一つも載っておらず、 Anderw Radford ばかりなのが良くないというものでした。
そのダメ出しに対する僕の答えは、「Chomsky は難しすぎて歯が立ちません」でした。2021年のことでした。
その時教授からもらったアドバイスが、「翻訳に当たってみれば?」「福井直樹先生の物だったら信頼できるよ」でした。
京大の教授陣からも信頼される生成文法家福井直樹先生の訳署は、幸運なことにいくつか出版されています。
そして、僕がその時教授から勧められたのが『チョムスキー 言語基礎論集 』という本でした。
僕はこの本を元から持っていたので、特に新しい発見をしたわけではないのですが、大学教授からも信頼される翻訳なのだなあと思いました。
さて、ブログで生成文法を説明する際の訳語が分からないこともあり、最近この本を紐解いてみました。
そして、やっぱり生成文法をやるなら洋書を読まなきゃいけないなという思いをますます強くしました。
まず、訳語がわけが分からな過ぎてもはや宇宙語です。名辞とか、「もうやめてくれ」と思うような訳語が続きます。やはり翻訳なんて読む物ではないなという思いを強くしただけでした。
しかし、思わぬ発見もありました。
既に述べた通り、この本の翻訳は福井直樹大先生が行っています(厳密には監訳なので、下働きの人が訳しているはず)。
福井直樹大先生はMIT 卒なので、おそらく Chomsky から直接指導を受けているはずです。
その甲斐があってか、Chomsky 本人にこの本(『チョムスキー 言語基礎論集』)への序文を書く依頼をしているっぽいのですね。
そもそも『チョムスキー 言語基礎論集』は、Chomsky の長年の諸々の著作から一部分をかいつまんできて、それを翻訳し、一冊の本としてまとめたものです。
なので、Chomsky 本人が新しく何かを書いたわけではありません。
しかし、おそらく福井直樹大先生が「この度日本語訳を出そうと思っているのですが、Introducton を執筆願いますか」みたいなことを Chomsky 本人にお願いしたのだと思います。
なんと Chomsky が2010年にこの本のためだけに書たと思われる Introduction という章が英語の原文で現れます。
もちろんその日本語訳も現れますが、僕はこの原文の “Introduction” がすごくありがたかったのです。
何せ、10ページも Chomsky は書いてくれたのですから。
昔の Chomsky は、5年毎くらいに数百ページの著作を執筆していました。
しかし、2000年代になり、彼の筆にも陰りが見え始めました。以前のような数百ページの著作は生まれなくなり、3~4年ごとに30ページくらいの論文を世に出すようになっていきました。
2008年に MIT を退職してからはさらに悲惨で、3年待っても16ページくらいの論文しか出さないようになっていきました。さすがに80~90代になると、体力が落ちてくるのでしょう。
本当に仕方のないことなのですが、生成文法家としてはかなり厳しいです。何せ、年々聖書が薄くなっていく感じですから。
なので、2010年代は、Chomsky の著作1ページ1ページが本当に貴重なのです。
2008年に”On Phases” を世に出し、それから数年 Chomsky は沈黙していたと僕はてっきり思っていました。
“On Phases” でアイデアだけ出して、説明が足りていないところがありました。僕はどうもその部分が理解できませんでした。
Chomsky あるあるなのが、以前の著作で説明不足だった所を、次の著作でしっかり説明してくれることです。
しかし、彼の次の著作は2013年発表の “Labelling Algorithm” で、以前とはかなりアプローチが異なるものでした。
故に、Chomsky あるあるはありませんでした。
この2つの著作をつなぐものが欲しかったのですが、僕はずっとないものだと思い込んでいたのです。
それがどうしたことか、『チョムスキー言語基礎論集』の Introduction として、2010年執筆の彼の原文が載っているではありませんか。
こんなの、棚ぼた以外の何と呼べばよいのでしょうか。
僕はむさぼり読みました。