勉強を頑張れた人の末路【京大卒】

1,大体病みます

僕は努力の人でした(今もそのつもりです)。昭和生まれの教師は努力の重要性を説きがちです。それに乗せられたのでしょうね。自分なりに一生懸命勉強をやりました。

洛南⇒京都大学⇒ニート⇒私学教員、とやってきました。英語の偏差値45から、その難解さで知られるNoam Chomskyの著作が読めるところまで実力を上げました。5000万語くらいの多読が必要でしたね。

これだけやって、今はどうなったか。

年収は0円、病んで落ちぶれています。

これが僕だけならまだしも、似たような状況の人が結構いるのが現状です。

頑張って京大に入って、そして病んでしまう人たちが結構いるのです。(東大は分からない)

2,なぜ病むのか

大きく分けて原因は3つです。

①自分よりもできる層と対峙するから

②努力には限界があるから

③勉強と仕事に必要な能力が無関係な場合が多いから

「自分よりできる層と対峙する」について

勉強を頑張れば頑張るほど上の集団とぶつかることになります。公立の小中学校ならその地域に住んでいる生徒がきます。できる奴もできない奴もいるという状況が成り立ちます。しかし、高校より上は偏差値で区分されている傾向にあります。ということは、高校以降は同じ偏差値で輪切りにされた集団相手に戦うことになっていきます。

一般に進学校と呼ばれるところにはできる奴が多くいます。そういった進学校に入るため20人に1人くらいの努力をせねばなりません。その後も自分と同格かそれ以上の人たちと戦い続けることになります。

結構しんどいですが、実はこういった環境で人は大きく成長できます。

自分より格上相手に、どうやったら差を縮められるか知恵を絞って考え、必死に努力するのです。

こういう環境に身を置けば成長につながりやすいです。しかし、洛南というのは刺激が強すぎました。全国模試で3位とかを取る人が同じクラスに普通にいるのです。そこと自分を比べても、もはや劣等感しか抱けません。

そのまま京都大学に進学した僕ですが、やはり自分より格段にできる層に出くわしました。京都大学の上位10%くらいです。

大学の勉強は高校と違い範囲が無制限で、おまけに難易度も無制限です。

勉強が分からないという人生初の経験をしている時に、こうしたできる層と対峙したのはやはり精神的に良くなかったですね。まさに一本柱が折れてしまった感じでした。

昔から勉強だけは何とかなりました。頑張って追いつけない相手など、高校に入るまで出会ったことがありませんでした。

そんな人が、勉強が全く分からなくなって、周りには10人に一人くらいすごい奴がいるという環境に身を置くと、メンタルがやられます。

「努力には限界がある」について

受験で「勉強に関しては頑張ったらどうにかなる」という原初体験をしてしまった自分は、大学でも頑張りました。

やってやってやりまくりました。何せ今回は範囲無制限の戦いなのですから。

そして病みました。人間にできる努力の量には限界があります。

誰でも努力次第で成功するなんて真っ赤な嘘です。努力には限界があります。

無限に努力を積むことは不可能です。

昔から薄々感じていたことではありましたが、教員としていろんな人間を見てきたので断言できます。

勉強に関して、成果とは、

才能×努力

です。

才能が人の半分しかなければ、人の倍の努力をしなければ同じ成果は出ません。

逆に才能が人の倍あれば、半分の努力で平均値は達成可能です。

ほとんど勉強をしていないのに良くできる人は、この才能の項が非常に大きいのです。

そして僕は、この才能の値がそれほど大きくはありませんでした。

京大上位10%の人たちと比べると、自分の才能は1割か2割低いと感じました。本当はもっと差があるのかもしれませんが、これが僕の感触でした。

この差を埋めるためには、相当な努力をする必要があります。

なぜならこうしたできる層もかなりの努力家だからです。TV番組でよく取り上げられる「ほとんど努力しないで~」というのはかなり稀なケースです。こうしたすごくできる人の多くは相当な努力家です。

そんな彼らを上回ろうと頑張りました。その結果病みました。

努力には限界があります。勉強における成果とは、才能×努力の積だとは上で触れました。

では、努力の部分を無限にまで伸ばしていけば、理論上、勉強の成果は無限に伸びていくはずです。

その通りです。

しかし、〇年以内に成果を出さねばならない、というタイプの戦いになると、睡眠時間を削ったりする必要性が生じてきます。無限に睡眠時間を削ることはできません。そして僕は負けました。

よく考えてみると、僕たちは何か困難に直面すると「頑張る」という選択肢しか取れないように育ってしまった人たちなのかもしれません。

アーチェリーや抽象画の才能を測られる人は一握りです。それに対し、日本人ならほぼ全員が小学校1年生の段階で勉強への適性が測られます。

本来なら、自分の才能のある分野を探すのも必要な努力だと思います。しかし僕らは、全自動で勉学の才能が測られてしまいました。

そこで勉強への高い適性を示してしまうと、周りの大人たちから「エライ」と褒められます。そうして頑張っているうちに、どんどんできるようになります。もちろん、自分くらい才能のある人や、自分よりもっと才能のある人と出会うこともあります。しかし、そういう場合は「もっと頑張る」という選択肢を取ればよいのです。

そうして正攻法だけとっているうちに、気づけば僕は京都大学の学生になっていました。

そうやって育ってしまったので、少なくとも僕は困難に直面すると「もっと頑張る」という選択肢しか取れなくなっていました。

そういう人たちが周りに一定の割合でいました。上位層ほどそうした傾向が強かったですね。

それでも勉強面では通用した人たちです。

しかし、そういう人ばかり集めて競争をさせると、本当の上位層以外は「もっと頑張る」だけでは勝てなくなってきます。その時、「もっと頑張る」以外の選択肢を取ったことのない人は弱いです。

僕らは「もっと頑張る」以外をやったことのない人たちです。勝負を諦めたり、他のことに何か才能があるのではないかと色々試したりしなくても20歳くらいまで通用してしまった人たちです。

そしてある日突然勉強で一切通用しなくなるのです。大学の勉強とはそれほど難解で範囲が広いのです。

そして僕は病んでしまいました。

「勉強と仕事に必要な能力が無関係な場合が多い」について

結構しんどくなってはいましたが、何とか耐え忍んで就職活動までこぎつけました。京都大学の学生の内20%くらいがここまで来ず散っていきます。

我ながらよく頑張ったと思います。普通の学部ならできる学生にノートを見せてもらったり、レポートのアイデアをもらったりできます。しかし僕が行っていた総合人間学部では、そういうことは難しかったです。必修という概念が薄く、各人が勝手に専攻と科目を選んでいきます。

僕が選んだ英文学科は僕以外の学部生が一人もおらず、一人きりで戦い抜きました。(だからできる人にノートを見せてもらうといったことができなかったのです)

そして臨んだ就職活動で、「なんか違う」と思いました。

勉学の能力で選抜されているのではなく、集団の中でうまくやって行く能力で選抜されていると感じましたね。

その証拠に、面接で勉強エピソードが聞かれることはありませんでした。

エンジニア等の研究職に就くのなら話は変わってくると思いますが、文系職なら勉強は不要です。

むしろ、ニ〇リからは「なんで学生時代の一番頑張ったエピソードが勉強なんですか」と聞かれて、「じゃあ遊んどいたほうが良かったんですか」と聞き返したら落ちました。(そりゃそうだわ)

僕が一番驚いたのは、落ちたことではなくこうした馬鹿馬鹿しい質問を平気でする面接官の感性です。

日本の大学生が勉強をしないことがよく指摘されますが、こういった「勉強をすればするほど就職が難しくなる」システムがあるからというのは大きいです。

専攻内容が重視されるのなら学生も一生懸命勉学に励みます。しかし、コミュニケーション能力や、集団の中でそつなくやって行けるかが問われる日本の新卒一括採用システムでは、勉強ばっかりするよりもサークルに入ってそういう能力を伸ばした方が「賢い選択」となります。

結局ニート暮らしを2年ぐらいしてから私学の教員になりました。

教員になる際は勉強エピソードを少しは聞かれたので、一般企業とは全然違うと感じましたね。

しかし、そこでも「何か違う」と感じましたね。

僕が行っていたのは継続校というエスカレーター式の学校です。ネットで推薦学院大と呼ばれている某私立大学から一学年より多くの推薦枠をもらっているところです。よって事実上全員そこに進学できます。

実態としては、入学時点の学力で止まります。進路を保証してしまっているがため、教員が何もできないという構造がありました。

するとどうなるか。教員は2組に分かれます。

自分たちのやばさを悟ってすぐにやめていく側。(やめてニートになる人が多い。それほど私学業界は就職難。)

自分たちのやばさに気が付かず、ずっとやり続ける頭の弱い側。

生産ラインにただ立っているだけで、流れてくる製品に何も手を加えられない感じだとメーカーで研究職をしている知人に説明をしたことがあります。

教育を生産ラインに例えるのはいかがなものかと思いますが、メーカー勤務の人に説明するために用いた比喩です。

進路を保証してしまっているために、勉強をすることはありません。そうすると、生産ラインを6年(ないしは3年)かけてただ流れていくという現象が起きます。

我々教員は法律上生産ラインに立たねばなりません。(教員がいない授業ってみたことありますか? それがないのは、法律でそういうのを禁止しているからです)

しかし、継続校の場合、我々教員が何かプラスになることをしているかというと、そうでもありません。何もできないシステムがあるので、イメージとして、生産ラインにただ突っ立っているだけですね。

(だからこそ明治大内部生にはTOEIC150点とかがいます。詳細はwkatte TVの動画を見てください)

なのに年次昇給で自分たちの給料は上がっていく。このやばさに気づけた側はすぐにやめていきました。

だって生産ラインに立って何もできないまま、自分たちの人件費は上がり続け、その一方で少子化のため学校の収入は下がり続ける。

僕が社長(理事長)だったら5年くらいで従業員を一掃して、安く働いてくれる若手を雇います。

結局こういうシステムに気づけない人たちが残っているのです。そして、腕の見せ所みたいなものがないので、年次絶対主義みたいなものがはびこっています。要するに年次が上=エライ、という構図です。

結局そういうところに勤みて分かったのが、勉強と社会で生き残っていく力は別物である、ということでした。

会社員として必要なのは、集団の中でうまくやって行く力と演技力です。

社会に出てみて分かったのが、自分とは違う感性の人がほとんどだと言うことでした。

洛南⇒京大、と進学してきてしまったので、そこで出会った人たちが僕の中では「普通」になってしまっていました。

しかし、洛南や京大にいる人が社会の多数派ではありませんでした。むしろ少数派でした。なので、自分とは感性の違う人たちに合わせて振る舞う身のこなしは会社勤めには必須だと分からされました。

(具体的にどう感性が違うのかは別の記事で扱う)

そして演技力。

これは本当に大事です。

結局サラリーマンとは雇われ人です。雇った側が必ず存在します。雇った側がどういう役割を演じて欲しいのかという思いが必ず存在するはずです。それがどんなに反社会的なことでも、給料をもらっている以上遂行せねばならないことも分からされました。「これは間違っている」とか言っているようじゃまだまだガキです。

結局権益ビジネス(ブランドネームなどで売っているビジネス)をやっている限り本人の能力と仕事は直接関係なくなります。継続校がその典型例です。

なので、勉強と仕事は無関係でした。もっと言えば、勉強ができる人ほどしんどくなっていました。一方、組織の中での身の振り方が分かっている人たちは元気そうでしたね。

勉強ばっかりやっていた人たちが、組織の中での身の振り方がうまいと思いますか。ここらへんで勉強を頑張れた側は病んでいきます。

3,自分一人で生きるという選択肢もある

勉強に関連することを習得して、自分一人で生きていくという手もあります。

翻訳家、通訳、プログラマー、公認会計士、弁護士、司法書士、行政書士など、専門家的な職業は世の中にあります。勉強を頑張れた側は、こういった専門職でやって行くのがいいのではないでしょうか。

ただ、こうした職業は敷居が高いですね。なるために相当の努力が必要です。僕がなれるのは翻訳家か通訳かプログラマーくらいですが、翻訳家はもう終わりそうです。

グーグル翻訳が精度を上げてきたので、そのうち10人中9人くらいが廃業すると思います。今のうちにブログやYou Tuberとしての活動を始めておきましょう。

TOEICで満点くらいを取ると、社会的注目が高まるので、You Tubeでも収入につながりやすいです。実際TOEIC満点を謳い文句にしているYou Tuberはいます。(でも滑っている感があるが・・)

翻訳家として普通にやっていけてる人なら、リスニングに対策さえまともにすれば満点は見えてきます。

また、英語を仕事にするという意味では、通訳はAIに仕事を奪われにくいですね。

文章として書いてあるものではないので、Google 翻訳の餌食になりにくいです。でも10年後や20年後どうなるかは分かりません。

結論、英語だけで戦うには限界がありそうです。会計やプログラミング、さらには法律などの知識とかけ合わせればまだ戦えそうです。

(こういったことは『僕は君たちに武器を配りたい』という本に書いてあります)

作成者: hiroaki

高校3年の時、模試で英語の成績が全国平均を下回っていた。そのせいか、英語の先生に「寺岡君、英語頑張っている感じなのに(笑)」と言われたこともある。 しかし、なんやかんや多読を6000万語くらい積んだら、ほとんどどんな英語文献にも対処できるようになった。(努力ってすごい) ゆえに、英語文献が読めないという人は全員努力不足ということなので、そういう人たちには、とことん冷たい。(努力を怠ると、それが正直に結果に出る) 今は、Fate Grand Order にはまってしまっていて、FGO 関連の記事が多い。