才能がないけど英語をやっていてよかったと思うところ。

1 大前提:外国語の習得には才能が大きく関係する。

どんなスキルを身につける際にも学習者の才能は大きく影響するとはずです。

料理でも、将棋でも、野球でも、数学でも、個人の才能で習得するために必要な期間と技能の最高到達点は大きく変わってくるはずです。

かなり昔の研究で既に、英語等の外国語もこうしたスキルの一種だということが分かっていました。つまり、外国語を身につけるスピードとどれくらい上手くなるか(=流暢さ)は、学習者の才能に大きく影響を受けるということが分かっていたのです。詳しくは以下の記事を参照してください。

僕自身この事実を知ったのが去年(2021年)のことでした。ケンブリッジから出ている外国語習得論の本を読んでいて、そこにはっきり「外国語習得のスピードと結果には才能が大きくかかわっている」と書いてありました。

(書誌情報:Schwieter, J. W. and Benati, A. (eds.) (2019) The Cambridge Handbook of Language Learning. Cambridge: Cambridge University Press.)

これを初めて知った時、やはりショックが大きかったですね。それもそのはず、自分に英語の才能がないことは人生の要所要所でなんとなく悟っていましたから。

しかし、不思議な安堵感みたいなものもこみ上げてきました。

それまでの僕は「英語は言葉だ、やればできる」とか、「英語に才能は関係ない」という文言を無理やり自分に信じ込ませているきらいがありました。

僕の周りにいた才能のある人たちも、努力はしていたと思います。しかし、自分と比べた時、やはり「やった時の伸び方」が尋常ではありませんでした。

そういう人たちはトントン拍子に英語力を上げ、今は、スタンフォード大学やケンブリッジ大学といった新たなステージで勝負をしています。

そんな彼ら(彼女ら)のまぶしい姿を横目で見ながら、僕は自分なりの努力を続けました。多読はもう6000万語近くまで迫っているはずです。

それでも彼らのようには実力は伸びませんでした。本当に自分でも「何年やっているんだ!」と突っ込みを入れたくなるくらいです。しかし、「英語には才能は関係ない」という言葉を信じて、僕はひたすら努力を続けました。

「ありとあらゆるスキルの習得には才能が大きく影響するが、英語だけは何故か才能が関係ない」という誰が考えてもおかしな論理を無理やり自分に信じ込ませて、「結果が出なければ自分の努力不足」と自分に言い聞かせてきました。

この考え方だと、結果が出なかった時の思考回路が一つに絞られがちです。伸びない⇒自分の努力が不足している⇒それならもっと努力をすればよい。という具合です。

確かにそういう考え方で通用する場面も多いのでしょうが、僕はもう通用しなくなっていました。

体を壊し始めたからです。

人間の努力できる量には限界があります。無限に頑張り続けることはできません。

僕も以前は起きている時間はずっと勉強という生活が普通にこなせたのですが、今ではその4分の1もこなせません。

そんな時、例の「外国語の習得には才能が関係している」という論文を読みました。

ショッキングではありましたが、不思議な安堵感がこみ上げてきた記憶があります。「自分の努力不足ではなかったのか」と。

2 ここまでやれてよかった

自分に才能がないところで戦うとしんどいことが多いです。惨めな思いも沢山するでしょう。

ただ、僕はここでここまで戦ってきて良かったと思う部分も少なからずあります。

既に述べた通り、僕はもう6000万語近く多読を続けています。最近は体調を崩してしまって、以前ほどのペースでは読めなくなりました。しかし着実に継続できています。

ここまで多読をこなすと、よほどの事情がない限り、英語を読む力は上がります。今、僕はほぼどんな洋書でも読みこなせるようになっています。これが良かった点の一つ目です。

もちろん数学書のような特殊な本はいまだに読めません。しかし、そういった特殊な本以外は大した苦労をせずに読みこなせるようになりました。

この点は研究をするうえで大きな強みになっています。

生成文法で最も難しいとされる Noam Chomsky の著作も一部の例外を除いて、直接読んで、直接理解できます。

しれっと書いていますがこれって案外すごいことだと思います。最近、京都秋の古本市というのに行ってきたのですが、洋書コーナーには僕以外ほとんど人がいませんでした。

つまり、日本人で洋書を読みこなせる人は少数派のようです。僕も多読を重ねることでそのうちの一人になったわけです。

英語をやっていてよかった点の二つ目は、自分の実力が伸びる時期を体感できたことです。いわゆる成長曲線というやつです。

多読を継続しているはずなのに実力が伸びないということはよく起こります。というよりむしろそれが日常です。

それでも練習を続けると、3~4か月後には実力が一段階上がっているということが往々にして起こります。というか、僕の場合ほぼすべてこういう形で実力が伸びてきました。

徐々に伸びるのではなく、急に伸びるのです。そしてまた伸びなくなります。

成長曲線という言葉を聞いたことがある人は多いと思いますが、体感している人は意外と少ないのではないでしょうか。

英語学習の全ての面にこの「成長曲線」の概念が当てはまるのかどうかは謎ですが、少なくとも多読に関しては成長曲線でしかありませんでした。

こうしたスキルの伸びを定期定期に体感していると、ほかのスキルを獲得する際にも強いと考えています。

伸びない時期に出くわしても「まあこんなもんか」くらいに受け止めることができます。さらに、「あと1000時間くらいで伸びるはず」という概算までできます。つまり、伸びない時期に対しての耐性がついてきます。

また、リーディングを鍛えまくるとリスニングにも好影響を与えるようです。いま僕は、『ハリーポッター』全作品の朗読を周回するというプロジェクトを実行しています。

こうした英語小説の朗読音声は昔は CD で入手可能でした。しかし、時代は変わり、現在は Apple Books か Audible (アマゾン系列)で音声を購入できます。

僕は両方使っているのですが、IPhone ユーザなので、Apple Books の方が便利だと思っています。ただし、ここらへんは個人の感想です。

今まで多読を頑張ってきたからか、英語での講義をとってきた成果なのか、こうした英語の朗読を聞いてもほぼ全て意味が分かります。

確かに部分的に分からない個所はあるのですが、それでも全体として聞き取れるし、意味も分かります。

今は少し体調が悪いので、多読のペースは「うなぎ下がり」です。しかし、その代りにこうしたリスニングの時間を多くとれています。

ただし、この勉強法を万人に勧めることはできません。他の記事でも書いたことですが、どんな学習法が効果的なのかは学習者のレベルに左右されがちです。

例えば、僕自身『ハリーポッターと賢者の石』の朗読音声ファイルを購入したのは2年くらい前なのですが、当初は全く使い物にならなかった記憶があります。

その時点での多読量はそこそこあったはずなのに、普段すんなり読めているレベルの物を音声で聞くと全く歯が立ちませんでした。

その後2年余り勉強を続けた結果、残りの作品に関しても音声で聞いて大半を理解できるようになりました。

もちろん大学に再入学してから英語での講義をいくつか履修してきたことも大きかったでしょう。英語での講義を履修していると、半ば強制的にリスニングの訓練時間が確保できます。

そうこうしているうちに自分の実力が上ってこうなったわけです。

これが英語をやっていてよかったことの3つ目です。昔手も足も出なかった教材ができるようになることです。

3 まとめ

自分に向いていないことを突き詰めるとしんどい思いをすることが多いです。これは英語にも当てはまります。しかし、真剣にやっているとある程度実力が上ってくるのもまた事実です。僕の場合は多読をしっかり継続したおかげで、今では大抵の洋書は読みこなせるだけの力はついています。またリスニングに関しても普段読むレベルより多少低めなら朗読音声を聴いて大体理解できます。

作成者: hiroaki

高校3年の時、模試で英語の成績が全国平均を下回っていた。そのせいか、英語の先生に「寺岡君、英語頑張っている感じなのに(笑)」と言われたこともある。 しかし、なんやかんや多読を6000万語くらい積んだら、ほとんどどんな英語文献にも対処できるようになった。(努力ってすごい) ゆえに、英語文献が読めないという人は全員努力不足ということなので、そういう人たちには、とことん冷たい。(努力を怠ると、それが正直に結果に出る) 今は、Fate Grand Order にはまってしまっていて、FGO 関連の記事が多い。