こんにちは、ヒロアキです。
18歳の後半から英語を始め、20代後半の今、6000万語くらいの多読を積み上げています。
学問的にできることも増え、スキルの面で少しだけ安定してきたので、心の余裕も生まれてきました。
そんな僕も、19~25歳くらいの時期は色々ありました。つらいことばかりでしたね。
高校時代の僕は「大学に入ったら英語だけは絶対にやらないだろう」と思っていました。しかし、今では英語ばかりしています。
また、「将来は歴史学をやっているだろう」とも予想していました。しかし、その予想に反し、今の僕は言語学ばかりしています。
そんな僕が、15歳の自分にメッセージを書きます。
15歳の自分へメッセージを書く
15歳と言えば、中学3年~高校1年生くらいです。
その時代の自分はどういうやつだったのかというと、「両親が教育大学卒で小学校教師、学問のことも、社会のことも何も知らなかった」のです。
そんな自分に何かメッセージを書くとすれば、下記のようになりますね。
①とにかく英語を頑張れ
②よく寝ろ
③数学頑張れ(受験は英数ゲーだ)
④学校の授業には期待するな
⑤社会にも期待すんな
この5つでしょうね。
「学校の授業に期待すんな」も「よく寝ろ」も大事です。
しかし、「英語を頑張れ」は、その100倍胃くらいは大切です。
1 学問とは、どれだけ英語を読むのか競う競技である
高校時代の自分にとって、英語は特別な科目ではありませんでした。
せいぜい、「現代文、古典、漢文、英語、数学、世界史、日本史、理科(地学)」の中の1科目という位置づけに過ぎなかったのです。
京都大学の入学試験は、数学が1問30点と配点が大きいので、数学はかなり頑張りました。
しかし、大学に入って実際の学問に触れて分かったことが、「学問とは、どれだけ沢山英語が読めるのかを競う競技だ」ということでした。
まともな文献は全て英語で書かれているし、翻訳は専門用語が宇宙語です。(歴史学などは、翻訳が割と読みやすいので、翻訳が宇宙語になるのかは、分野によるのでしょう。)
せっかく和書を探してきても、参考文献がほとんど全て洋書だったりして、萎えました。
結局、日本語では学問の入り口にぎりぎり立つことはできても、そこから一歩も先へ進めないのです。
英語が嫌いで苦手で仕方がなかった自分は、英語を避けてきたきらいがあります。
幸か不幸か、大学入学まではそれでも通用してしまいました。
多科目を満遍なく問う京都大学の入試制度上、それでも受かるのです。
さらに、京都大学の英語の試験にも問題があると思っています。
京大の英語は試験時間がべらぼうに長いのに、長文2問と和文英訳2問しか出題されません。今は変わってしまったのかもしれませんが、僕が受けた時はそうでした。
こういう試験が「到達点」として用意されてしまっているからこそ、「英語を沢山、短い時間で読む」という訓練が欠けてしまうのです。
普通の受験生は、試験で問われないことは訓練しません。その時間を使って他の科目を勉強します。
そうして誕生するのが、「洋書が全然読めない典型的な京大生」です。僕もその一人でした。
そんな僕が、「洋書をどれだけ読むのかの競技である」学問という場に放り込まれてどうなったのかは、あまり書きたくありません。
ただ、自殺を考えていた時期があるとだけ言っておきます。
2 はやく、英語を勉強しよう
「受験にフライングは、ない」という有名な言葉がありますが、英語に関しては、完全に嘘です。英語にはフライングがあります。
例えば、
Schwieter, J. W. and Benati, A. (eds.) (2019) The Cambridge Handbook of Language Learning. Cambridge: Cambridge University Press.
という本にも、他の本にも、外国語習得には年齢が大きく関係するという生々しいデータが載っています。
言語を母語として身につける力は、7歳を過ぎると急激に落ち始めます。
ですが、13~14歳くらいまでは、まだ幾ばくから残っているらしいのです。
そこから先、例えば15歳以上の人は、そうした力なしで外国語をスキルとして身につけていくことになります。(この辺りは研究者によって意見が分かれている)
なので、仮に15歳の自分がその時点で英語を真剣にやり始めても、正直、遅いくらいです。
しかし、外国語がスキルなら、絶対に早く始めるに越したことは無いと思います。
現実の僕のように18歳の後半で始めるより、15歳から始めたほうが良いに決まっています。
なので、「はやく、英語を勉強しよう!」
3 英語の重要性を教えてくれる人は、周りにいない
少し前から疑問だったのですが、僕みたいなやり方で英語の重要性を教えてくれる人に、僕は人生の中でほとんど出会ったことがありません。
「僕みたいなやり方で英語の重要性を説く」というのは、
「言語学(しいては学問というもの)をやって行くと、英語の文献しかなくなる」
「学問はどれだけ英語を読めるのかという競技だ」
「翻訳は宇宙語(分野にもよる)」
「専門書の参考文献リストに載っている文献の99パーセントは洋書か英語論文(これも分野による)」
「そうした数少ない和書も1950~60年代の物ばかり」
という、自身の学問経験に基づいて、残酷なデータを出しながら、「英語が読めたらいいよね」ではなく、「英語が読めないと、本当に何もできない」という事実を突きつけていくスタイルです。
今でもこういう人たちにあまり出会わない以上、中学時代の自分は、そんな人に一切であったことがありませんでした。
大学に入り、学問と対峙していく中で、上で紹介したような英語の大切さが分かってきました。
その中で、「なぜこういうことを周りの大人たちは教えてくれなかったのだろう」と疑問に思ったこともあります。
「こういうことを教えてくれる大人が周りに一人でもいれば、英語の観方が少しは変わったのに…」と思うことも多かったのです。
しかし、今になって、「こういう人たちが周りにいなくても不思議ではない」と思うようになりました。
まず、学問を真剣にやった人というのが人口の少数派です。
そして、「参考文献リストが全部英語になる」という、僕みたいな状態に至る人は、その中の一握りです。99パーセントはこの競争から離脱します。
なので、こんな参考文献リストを掲げている人は、日本では天然記念物くらい珍しいのです。
References (Linguistics) – 言語学研究家・Hiroaki (linguist-ht.com)
そんな人に出会わないまま大学生になるというのは、ある種当たり前のような気がします。
なので、「英語を読むことの重要性を教えてくれる人はいない」という気持ちで臨むくらいで丁度いいのです。
ただし、僕が正しいのです。
「(生成文法や、他の数多の学問分野で)英語文献しかなくなる」というのは紛れもない事実ですし、それが読めなきゃ何もできないというのも事実です。
まとめ:学問は英語を読む競技である
なので、英語を沢山読む訓練をさっさと始めてみてください。
始めはしんどいかもしれませんが、何年もやっているとなれてきます。
下の記事が参考になるかもです。