1,昔はひどかった。
高校3年の時、模試を受けると英語が全国平均以下でした。
偏差値では45。同じクラスに英語で全国1位がいる中で、かなり惨めな思いをしました。
英語は高校時代から頑張っているつもりではありました。
しかし、絶対的な努力の量が足りていなかったのでしょう。
さらに、才能も他人より劣っていたのかもしれません。
その結果、順当に偏差値45という妥当な結果が出た訳です。
このころ、英作文の勉強をしていたら、英語の先生に「○○君(僕の本名)英語頑張っている感じなのに(笑)」と言われました。
本当に才能がある人なら、こんなことを英語の先生に言われたりはしないでしょう。
ゆえに、僕は勉強一般の才能がなかったのです。
そしてそのまま京都大学の総合人間学部(文系)に進学しました。
本当は文学部に行きたかったのですが、英語ができなさ過ぎて諦めました。
2,大学で求められること。
ここからは本当に地獄でした。
大学では、英語文献を読むことが当然のことのように求められます。
自分んと同じ学部には60人ほどが在籍していましたが、これができていたのは、5~6人くらいでしたね。僕はもちろんできない側でした。
英語文献を読めなかった当時の自分は、本当にしんどい思いをしました。
大学の先生の授業は、もちろん分かりにくいのですよ。(2~3の例外はあった)
なぜなら、彼らは授業の分かりやすさが人事評価になっているわけではなく、研究の成果で評価される人たちです。
よって、授業が分かりにくい、そもそも教える気がないというのは、大学に関しては当たり前です。(2~3人の例外はあった)
そもそも、高校もそういうところだったので、このような状況には「慣れっこ」でした。
しかし、高校と事情が違うのは、①塾や予備校が存在しない。②その科目の攻略法が載っている日本語のテキストがない。という2点に集約されます。
一つづつ解説していきましょう。
僕は、「京大に言って当たり前」というくらいの進学校に通っていました。
では、その進学校の授業は、質が良かったのかというと、そうでもありませんでした。
もちろん、京大卒のすごい優秀な先生が数人いましたし、彼らの授業はずば抜けて分かりやすかったです。
しかし、多数派はそうではありませんでした。
それもそのはず、終身雇用のポストで、生徒はどいつもこいつも超優秀。ほおっておけば研伸館や駿台に行って勝手に合格実績が伸びていくというシステムの中、できない教員の淘汰が極めて起こりにくいというのは、小学生でも分かることです。
実際に、そこでの授業を受けて、同級生の9割5分くらいが研伸館や駿台に慌てて入ったという始末です。所詮こんなもんです。
ただ、高校時代は、学校の勉強が分からなかったり、先生の授業が意味不明だったとしても、塾や予備校に行けば、授業がうまい先生に教わることができるという構図がありました。
僕は塾や予備校にはいきませんでした。
その代りに、そうした塾や予備校の先生が書いた参考書をやりこみました。
そう、僕は参考書人間です。
ここからは、「②その科目の攻略法が載っている日本語のテキストがない」についてです。
高校までは、その科目の達人みたいな先生が書いた参考書があります。
学校の先生の授業が分かりにくても、こういった参考書をやれば大丈夫でした。
模試を受けていくと、似たようなことが手を変え品を変え問われ続けていることに気が付きました。
そして、そうした繰り返し問われることは、その科目の達人たちが書いた参考書に、頻出事項として太字で載っていることとほぼ一対一対応をしていることにも気が付きました。
そこで、参考書に載っている頻出事項をある程度やりこみ、本番の入試に臨んだところ、やはり似たり寄ったりのことが問われていました。
そして、僕は過去問をすることなく京都大学に入学しました。
が、大学に入ってからは、①勉強が分からい場合に行くべき塾や予備校が存在しない。かつ②その科目の攻略法が載っている日本語の参考書が存在しない。という二重苦に悩まされます。
法学部などでは、①の問題は解決可能なのかもしれません。
全国統一の司法試験の攻略に向け、塾や予備校的な存在が介在できます。
そもそも、高校で塾や予備校があれだけやれている理由は、高校の勉強というものが学習指導要領で定められた範囲だからです。
当然大学入試もそこから出ます。それ以上のことはほとんど問われません。
もちろん、大学レベルのことを知っていれば、より早く正解にたどり着くような問題はありますが、原則高校のレベルで解答が可能な範囲しか問われません。
しかし、大学には学習指導要領がありません。
授業のトピックは教授の好みで決まりがちです。
こういった場合、塾や予備校の出番はほぼありません。
一方、司法試験に合格することが目標なら、塾や予備校の出番は大いにあります。
だからこそ、伊藤塾などがやって行けるのでしょう。
しかし、僕が行っていた学部は、そういうタイプではありませんでした。
では、高校の時のように、参考書をやれんばいいじゃないかと思われがちです。
しかし、そうもいかないのです。
なぜなら、言語学に関して言えば、日本語で書かれた良い参考書はほとんどありません。
もちろん、多少の例外的な良著はあります。しかし、これらが例外だからこそ困るのです。
そう、大学レベルの学問では、参考書が英語になるのです。
このような、英語で書かれた良質な書籍を自由自在に読みこなせれば、教授が教えるのが下手でも、特に問題はありません。
Oxford University Pressから出ているtextbook seriesから適当なものを選んできて読めばいいだけです。
Cambridge University Pressから出ているtextbook seriesも素晴らしいです。名著ばかりです。
しかし、当時の僕にはこれができませんでした。
よって、教授の説明を一度聞いて分からなけらばそれで試合終了。ゲームオーバーでした。
そして、周りの京大生の9割くらいがゲームオーバーしていました。
長くなりましたが、大学で求められることとは、洋書を読む能力です。あとは洋書を読みまくれば、自ずとついてきます。
そして、僕にはこれができませんでした。
3,やったこと順に紹介。
そんな僕が洋書を読めるようになるまでにやったことです。やった順に紹介します。
①文法をしっかりやった。
②単語をしっかりやった。
③雑誌『CNN English Express 』のバックナンバー90冊以上。
④多読5000万語以上。
リストにしてしまえば、たったこれだけですが、実行するのには何年もかかりました。18歳の半ばで始めて、今は27歳なので、10年近くかかっています。
その間、沢山失敗しました。
そして、「結構やったけど効果が出なかった」ものは省いています。(音読など)
①文法について。
文法は、実際役に立ちます。というより、言語学というものが、平たく言えば文法を研究する学問なので、数学者が「数学は役に立つ」と言っているようなものです。
ただし、言語学以外の洋書を読む際にも基礎的な文法事項は必要なので、やはり基礎的な部分は分野を問わず必要なのだと思います。
高校レベルの知識があれば9割5分くらいは大丈夫なはずです。なので、そこをしっかり固めることが先決でしょう。
竹岡広信著『大学受験のための英文熟考 上下』(旺文社)
竹岡広信著『英文読解のための原則125』(駿台文庫)
などをやるのが良いかもしれません。
『英文熟考』は僕が高校時代に既に出版されていたので、受験前にやりこみました。
『英文読解の原則125』は、僕が大学に入ってから出版されたので、大学入学後にやりました。一通りやって、得るものは大きかったですね。
また、安藤貞雄(2005)『現代英文法講義』東京、開拓社
も併せて読んでいました。が、これを最後まで読み切ることは、当時はできませんでした。参照用に使っていました。
一つ一つのトピックの解説が(日本語で書かれた本にしては)かなり詳細で、大変勉強になりました。
しかし、世界基準のHuddleston, R. and Pullum, G. K (2002) Cambridge Grammar of the English Language, Cambridge; Cambridge University Press.と比べると、英文法日本代表とも言える『現代英文法講義』かなり貧弱でした。
僕は去年くらいにどちらも通読(最初のページから最後のページまで読む。ただし索引は除く)をしたので語る資格があるはずです。
『現代英文法』の内容だけで英文法を語るのは危険です。せめてCambridge Grammar of the English Language, を読んでからでないと厳しいです。
もっと言えば、Cambridge Grammar of the English Language ですら内容が薄いです。
もちろん、こうした英語で書かれた文法書が読めるようになったのは、本当にここ最近のことなので、まずは高校レベルの文法をしっかりやるべきです。
大学受験を乗り越えた人でも、高校レベルの英文法をきちんと習得しているかどうかは謎です。
僕の場合は、全国平均を下回っていたので確実にアウトですが、そこそこ点が取れていた人でも、ところどころ抜け落ちているところがあるかもしれません。
なので、ここは謙虚に自分の無知さを認めたほうが後の伸びが違うのかもしれません。これは本当に人によりますが。
②単語について。
文法をある程度やった後、僕は単語を沢山覚えました。
文法をいくら勉強しても洋書をすらすら読めるようにはなりませんでした。
そこで、なぜ読めていないのか分析して見たのです。
答えは単純でした。
圧倒的な語彙不足です。
だって、一行に2つも3つも分からない単語が出てくる文章を何百ページも読み進めることはもはや困難を通り越して不可能です。
そこで、単語を沢山覚えました。
植田一三著『英検準1級英単語大特訓』(ベレ出版)
植田一三著『英検1級英単語大特訓』(ベレ出版)
を使いました。両書とも内容が充実しており、良著だと感じました。
他の本も使いましたが、専らこの2冊で勉強しました。
結果として、英検1級の試験で語彙問題を1ミスに抑えるくらいはできるようになりました。
しかし、洋書を読めばまだまだ分からない単語が出てきました。
③雑誌『CNN English Express 』のバックナンバー90冊以上。
単語をある程度頭に入れたものの、それらが実際の英文でどのように使われるかがいまいち良く分かりませんでした。
だからこそ定着率も良くなかったのです。
そこで、雑誌『CNN English Express 』(朝日出版)をやりこむことにしました。
ここでは、英検1級レベルかそれ以上の単語が豊富に使われており、これらの単語の実際のニュアンスのようなものが分かります。
さらに、英語学習誌だけあって、スクリプト、注釈、日本語訳も充実しています。
まさに至れり尽くせりな雑誌でした。
しかし、2017年以降、内容の貧弱化が始まりました。
出版業界も不況なのでしょう。
また、長文を読むのが遅いという致命的な弱点は残ったままでした。
④多読5000万語以上。
そこで、多読を始めることにしました。
厳密に言うと、高校2年の時に数十万五多読をして、偏差値50から83くらいまで上げることができたのですが、それ以来さぼったため高3で偏差値が45まで下落していきました。
高校の英語の非常勤講師(竹岡広信という超人)が、「多読は効果的」と何度も強調しておられたので、やった次第です。(この人は「○○君英語頑張ってる感じなのに(笑)」発言をして人とは別人です。)
高2の時、ゴールデンウィークの宿題が、「レベル付きの洋書を一人一冊読んできて、それを提出する」というものでした。
そこで、僕はラダーシリーズのレベル2、確か『オーヘンリー傑作短編集』を読んで提出しました。
クラス全員(40人以上)が1冊ずつ提出し、それが学級文庫になりました。
これはかなり賢い施策です。
こういった多読ものは、圧倒的な量をこなす必要があります。
そして、やはりレベル付きの洋書から入るのが一番いいのですが、何分い冊800~900円くらいはします。
そんなのを延々買い続けるのは、高校生には厳しいです。
なので、40分の1の負担で40冊読めるようにしてあるのです。
本当に賢い。
そして、クラスの他の皆は一切読まなかったので、僕は夏休みにほぼ全冊を借りて、読み切りました。
厳密には、途中でギブアップしたものもありましたが、とにかくすべてに手を付け、できるだけ最後まで読み切りました。
誰かいいかっこをして、レベル付きではない『グレート・ギャツビー』を買っていて、そこで頓挫したのを今でも覚えています。
高校生がそんなの読めるわけないだろ!
これだけやって、夏休み明けの模試では英語の偏差値が50から83にまで伸びていました。
多読ってすごい。
しかし、それからは他の科目の勉強に手いっぱいになり、多読をしなくなってしまいました。すると英語の成績が徐々に下降していき、高3では偏差値45、つまり全国平均以下に。
ここで、英語という科目に対し、暗い気持ちを持ってしまうようになりました。
そのまま受験をして、いつの間にやら気がつけば大学4年生になっていました。
確かに、大学2年時に多読をやっていた時期はありました。
しかし、100万語くらい読んでからは、やめてしまいました。
そこで、もう一度多読を始めることにしました。
幸い、京都大学吉田南図書館には、Macmillan ReadersやOxford Bookworm Series等のレベル付き多読用教材が豊富に置いてありました。
それらを読んで読んで読みまくっていくうちに、自分の実力が上っていることに自分でも気が付くほどでした。
これらを300冊くらい読んだ後、レベルのついていないHarry Potter等、簡単な洋書も読めるようになりました。
それから何年も多読をし続け、現在は専ら言語学の専門書やら植物学の本などを読んでいます。
哲学書や古典文学等、今でも読めない本は結構あります。さらに、人文科学系日本は概して理系の洋書より難しく感じます。
それでも、洋書を読めるようになって、かなり人生は変わりました。
もちろん、収入が増えるなんてことは一切ありません。
むしろ減りました。
300万⇒ゼロ(失業)
でも、今では、調べたいことがあったら、Cambridge University PressかOxford University Pressのホームぺージで本を探してきて、そこら辺の本屋で注文しています。
それで読んで学問ができます。
繰り返しになりますが、学問に関して、日本語で書かれた良著は本当に少ないです。
しかし、英語で書かれたものは、良著、名著が星の数ほどあります。
母親から年金をもらって、古本屋巡りもしていますね。
300円均一で、Harvard university PressやUniversity of Chicago Pressの本が結構打っていたりします。
そして、そのコーナーで、おもちゃ屋さんに来た子供のように目を輝かせているのは、せいぜい自分くらいです。
そこで気づいたのが、皆これを読めないんだ、ということです。
僕にとっては、洋書はもう和書と同じ難易度です。
日本語で書かれた本でも、哲学書は難しいでしょう。それと同じ感じです。
ここまで来るのに、5000万語以上は多読したと思います。
厳密な数字は分かりません。そもそも数えてすらいません。
ただ、1か月にどれだけ読んでいるか数えた月が一度だけあって、100万語くらいでした。それも3年くらい前のことです。
今では、それを上回るペースで読めています。
そうしたことをかれこれ4年以上続けてきました。
そこに至るまでに1000万語は多読しているので、5000万語はしているだろうという計算です。
されに、文法、語彙等をしっかりやったのも、こうした多読のための下準備だったのかもしれません。
だからこそ、安易に「多読をやりましょう」なんて言えません。
だって、何準備もしていない人がやっても、ほぼ確実に挫折して終わりです。
ここまで来るのに本当に長い年月がかかりましたし、想像を絶するような苦労もしてきました。
だからこそ、「やってもできない」なんて発言、勉強面では絶対にできなくなりましたし、人の苦労も分かるようになりました。
そこで、最後に一言。