1 注意
言語学にはいろいろな分野があります。分野ごとにやっていることは全然違います。さらに、たとえ同じ分野をやっている人同士でも、周りに自分と同じ分野をやっている人がいる場合といない場合で、かなり違う体験をするはずです。
例えば、生成文法をやっている場合、自分の周りに生成文法家がいるのかいないのかは大きい問題です。
分からないところが生じたとき、聞ける人はいるのか。そもそも生成文法の授業はあるのか。etc.
今回は生成文法をやっているのが自分一人だけだったバージョンです。
2 言語学は残酷な場所です。
僕は生成文法家です。厳密には、生成文法を専門とする大学院生です。とはいえ、「研究」というより、「空きコマに自分でやっている」に近いイメージですね。
僕は孤立した生成文法家の視点でしか言語学を見ることができません。
僕から見た言語学という世界は、かなり残酷です。
読むべき文献はほぼ全て英語で、しかも結構難しいものが多いです。嘘だと思うなら、Chomsky (2008) “On Phases” 等を当たってみてください。
もしくは、Chomsky (2007) “Approaching UG from Below” は(2023年1月現在)ネット上で無料で閲覧およびダウンロードが可能です。タイトルで検索にかけてみてください。ただし、これは Chomsky の数ある著作の内でもかなり簡単な部類です。なので、これを基準に考えて彼の他の論文に当たると痛い目を見ます。
全部が全部これほどの難易度を持っているわけではありませんが、これらを読んで分からなければ、生成文法家としては、そこで終わりです。
なぜなら、生成文法家の実態は、こういうものを読んで、分かるか分からないかの戦いだからです。分かったならよし、それを踏まえて次の論文(著作)を読むか、自分で論文を書きます。
分からなければ、誰にも聞くことはできません。当然自分で論文を書く際にはそこがあらわになってしまいます。
僕の手応えとしては、一回読んだだけで分かるケースはまれで、何度も何度も読みなおしてやっと分かってくればそれでいい方です。
むしろ何度読んでも分からないケースの方が多く、その場合は一旦その論文は置いておいて、違う論文を読んだりします。
そうしているうちに、分からなかった部分が徐々に解消されることがあります。
例えば、Chomsky (2008) の Phase 理論が分からなかったとしましょう。phase は Chomsky (2000) で初登場の概念なので例が適切ではないかもしれませんが、今それは置いておきます。
phase が分からなかったとしても、諦めちゃいけない理由が、他の人が他の論文で phase のことを解説してくれている可能性が高いからです。
かなり親切な人は、自分が分析に使った理論について多少の説明を加えている場合が多いです。例えば、Hiraiwa (2005) 等がその好例でしょう。その他も数々の著者が数々の論文で phase について解説を加えています。(Nissenbaum 2000 等)
こういう他の論文(著作)で他の筆者がした phase の説明をしっかり読むと、phase がどういうものか分かってきます。
そのうえで再び Chomsky (2008) を読み返せば、まだ何とかなる可能性は高いと思います。
ただし、注意が必要なのが、こういった論文もほぼ全て英語で書かれている点です。
なので、生成文法をやるには、英語が読めないと終わりです。
これは誇張ではなくマジで終わりです。
言語学の他の分野については分かりません。しかし、生成文法の実態はこうなのです。
3 和書では言語学の土俵にすら立てない。
生成文法をやるなら、英語の論文や著作を読むのは当然であり、前提です。
これが出来なきゃ生成文法では土俵にすら立てません。(和書を読んでやった気になっている人は、本当にやった気になっているだけなのです。)
生成文法の世界とは、延々英語の著作と戦い続けて、自分でも英語で論文を書く、たったそれだけです。(フィールドワークやコーパス調査をしている人もいますので、ここは少し誇張が入りました。e.g. Hiraiwa 2005)
言語学の他の分野ではどうなっているのかは良く分かりません。しかし、少数派言語の記述をしている某大学教授と話したところ、その分野でも言語の記述はほとんど英語によるものらしいのです。
さらに、アメリカ人の友達に聞いたところ、国語学(日本語を研究対象とする言語学の一分野)でも重要な著作の多くは英語で書かれているとのこと。
特に古典の重要な研究は英語によるものが多いらしいです。(もしくは中国語、韓国語で書かれて重要な研究もあるとのこと。)
ただし、dialectology (方言学)は日本語の著作しかないらしく、この分野をやるには日本語をやるしかないとのことです。(そして彼は、アメリカ人なのに方言学にまい進しています。立派だと思います。)
以上から分かるように、分野によって違いはあるものの、英語が読めないと言語学の土俵にすら立てないということが分かります。
4 だからこそ僕はここで戦っている。
言語学、その中でも生成文法をやるには英語が必須だということは、生成文法をやり始める前から知っていました。
僕は元々英語多読を積んでいたので、日本語だけでは絶対に手出しできない領域をあえて選んだ面は否めません。
ただし、その時(2020年末)は、生成文法がこれほどまでに英語だけで完結している分野だとはさすがに思っていませんでした。
今、僕は生成文法という土俵で戦っています。確かに学説が理解できないことはしょっちゅうありますが、楽です。
ライバル不在で、自分が間違いを犯しても、周囲にそれを指摘できる人はいません。(だから間違えていいわけではないのだが。)
そして、YouTube の動画でもいろいろ解説しているのですが、理論的な間違いを指摘できる人は一人もいません。YouTube で勉強系の動画を見ている人に優秀な人はほとんどいないので、当然の帰結です。
MIT の博論という、無料でアクセスできる教材を紹介しているのですが、誰も手を出そうとしないし、勿論読んだうえで僕の作った生成文法解説や動画の理論的な間違いに言及できる人はいません。
もちろん世の中にそういう優秀な人はいるのですが、そういう人はYouTube を見ていません。
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