1 僕が言語学をやり始めたきっかけ:印欧祖語
この記事はちょっと特殊で、想定読者が過去の自分です。
現在の僕のステータス
①英語多読を6000万語くらいしており、大抵の洋書(英語論文)に対処できる。
②生成文法ばかりやってきた。
③古英語等、古典語に興味があるが、文字や専門文献が敷居が高いと感じている。
英語多読と生成文法に関しては、これまで惰性でやってきました。
これらについては、他の記事でもよく触れてきています。なので、今回は割愛します。
僕は印欧祖語や古英語などに惹かれて言語学の世界に入ってきました。
そのことは僕が2018-19年に作った動画を見れば分かるでしょう。
現代英語の時制や法(法助動詞の「法」)で、イレギュラーに見える部分も、昔の英語にさかのぼると、きれいな体系になっていたりします。
名詞の格とか前置詞もそうです。昔の言語では結構綺麗な体系があったケースが多いのです。
古典語までさかのぼって、そういう「きれいな体系を見てみたい」「現代英語のイレギュラーなところを納得して覚えたい」という思いに駆られていました。
英語という言語が始まるよりももっと昔にさかのぼると、ゲルマン祖語や印欧祖語という古典語にたどり着きます。
ゲルマン祖語については僕は詳しくありませんが、英語の究極のルーツと言える印欧祖語に関しては『英語のルーツ』という本を読んで以来、興味を持ち続けていました。
僕はこうして言語学というフィールドに入ってきた人間でした。
ただし、本格的に言語学をするには、(特にこの領域では)洋書を読み続けるしかありません。
言語学に興味を持ち始めてから数年後、僕は洋書に対処できるだけに力を付けました。
そこまでの苦労話を始めると長くなるので、ここでは全て割愛します。
2 理論に傾倒していた自分
多読を4000万語くらい積み、本格的な洋書に何とか対処できるようになった僕は、Hoggs (ed.) (1992-2001) Cambridge History of the English language. 6vols というシリーズを読み始めました。
読み始めたのはいいものの、読んでいると、どうしても樹形図が現れます。1巻目に現れましたね。(確か1巻目にしか現れないはず・・)
そこで、当時のピュアな僕は「樹形図が読めないと言語学をやる資格がないのだな」と思い、生成文法を徹底的に勉強し始めました。
そして、こうなりました。(下の参考文献リストを参照されたし)
生成文法をやりまくって、Chomsky の文献を制覇しにかかっています。コンプリートを目指しています。
生成文法の重要文献もコンプリートするくらいの勢いです。(例、Larson 等)
今の僕の余暇は、MIT の博論を読むことです。理由は、MIT の博論には難しいものが(僕が確認した限りでは)ないからです。
こうして出来上がった人間がどうなると思いますか?
理論先攻型の人間になるに決まっています。
生成文法というのが理論言語学で、そればっかりやってきたのですから。
今思えば、印欧祖語や古英語等、古い言語にあこがれて言語学という世界に入って来たのに、ずいぶんと違うことをしています。
何故そうなってしまったのでしょうか。
3 古典語をやる壁
古英語や古典ギリシア語、さらには古典ラテン語などは、やり始めるための壁のようなものが存在するように思います。
要するに敷居が高いのです。
一つ目はその文字です。英語はローマンアルファベッットで書かれています。スペイン語など、他の多くのヨーロッパの言語も大体そうです。
しかし、古典語はその限りではありません。例えば、古典ギリシア語は全てギリシアアルファベットで書かれています。(ギリシア文字がどんな感じかは、以下の投稿を参照してください。)
σ(シグマ)、オメガ等の文字とその音価(どう発音されるのか)が全て分かっていなければ、古典ギリシア語をやり始めることもできません。
なぜなら、文法書や専門書を見ても、古典ギリシア語の単語や例文は全てこうしたギリシア文字で書かれているからです。
英語をやるだけでも「お腹いっぱい」だった昔の僕に、こうした「見知らぬ言語の文字を1からやる」心理的な余裕はありませんでした。
(今は全部読めるからいいのですが。)
サンスクリット語の場合はもっと悲惨です。サンスクリット語も印欧祖語研究の中では古典ギリシア語に並ぶくらい重要な言語です。
そして、この言語もやり始めるのに文字を覚えなければなりません。ギリシア文字の場合は、α(アルファ)等、さすがに皆知っている文字が散見されます。なので、完全に一から文字を覚えるわけではありません。
しかし、Sanskrit alphabet の場合は、下のリンクから分かるはずですが、一から文字を覚えないといけません。
Sanskrit Alphabet (sanskrit-academy.com)
かなり敷居が高いと言えるでしょう。
勿論、1000年くらい前の英語である古英語も立派な印欧語族の古典語です。
なので、古英語をやればいいじゃないかと思う人も多いでしょう。
かつての僕もそう思っていました。
しかし、古英語もルーン文字という少し特殊な文字で書かれています。
ただし、ルーン文字は現在のアルファベットと共通する物が多く、サンスクリット語に比べて敷居はかなり低いです。
しかし、Hogg, R. (1992) Cambridge History of the English Language. vol.1. の参考文献リストから分かるように、この分野は何故かドイツ語の文献が多いのです。
その理由も少し考えてみれば分かります。
英語という言語がゲルマン語の一派です。要するにドイツ語の親戚みたいなものです。
1950年代以前は、学問の中心は英語圏ではなく、ドイツとフランスでした。なので、ドイツでドイツ語に近い言語の研究がかなり進んでいたと考えても不思議ではありません。
第二次大戦で英、独、仏がボロボロになってから、アメリカが学問の中心になり、今では学術の世界の共通語は英語になりました(Crystal 2003)。
しかし、古典語というのは資料がものを言う世界です。よって、1950年代や、それ以前の研究でも、きちんとした(古典)資料に基づいてやっていれば、70年以上たった今でも、皆が言及するようなものになるわけです。
ということで、今でも古英語界隈では戦前の研究が参照されうるという現状が出来上がったのでした。
ただし、現代の学術の共通語が英語であることを考慮に入れると、この現状のせいで、古英語という分野がかなり敷居の高いものになっていると言えます。
これは古典語あるあるで、立派な研究はかなり賞味期限が長いのです。そのせいで、学術の世界の共通語がその間に変わってしまうこともあるのです。
さて、残された古典語の一つであるラテン語ですが、これに関しては敷居は低そうです。
現代英語で使われているローマンアルファベットも、元をたどればラテン語表記に使っていたものです(ゆえに「ローマン・アルファベット」)。
ラテン語には多数の専門書や教科書があり、日本語の物もあります。
ただ、僕はそこから入りたくはなかったのです。なんかこう、専門専門文献的なもので、綿密な分析をしているところから入りたかったのです。
そう、こういうところからです(下のリンクを参照)
これはつい数年前に Oxford から出たラテン語文法の専門書です。
このシリーズが出る以前は、ラテン語文法の専門書は、やはりドイツ語、フランス語が強かったようです。
このシリーズのおかげで、僕はラテン語をやり始めることができるようになりました。しかし、(印欧語族の)古典語では、とうの昔に書かれたドイツ語やフランス語の文献がいまだに強い影響力を持っています。
まとめると、印欧語族の古典語は、現代英語の研究をするうえでも重要な時制や法、さらには格についての重要な情報の宝庫です。
時間的、体力的な余裕があるなら、これら古典語を研究した方が良いに決まっているのですが、文字を一から習得しなければならなかったり、いまだにドイツ語やフランス語の文献が重要文献だったりと、かなり敷居が高い領域になってしまっています。
4 結論、トカラ語をやるべき
既に Oxford からラテン語文法の専門書が出た以上、上で挙げたような問題は解決したと言えるでしょう。
英語だけをやっていても印欧語族の古典語を勉強できます。
古典ギリシア語やサンスクリット語も Cambridge から専門書が出kているので、英語だけでかなりの所まで「ごり押し」で進めそうです。(もちろん文字の問題は残っている。)
なので、厳密には「ドイツ語、フランス語の文献が読めなきゃ終わり」という問題は消え去ったようです。
これも学術の世界の共通語がどんどん英語になっている流れで起こったことです。
ただ、その点は一旦無視しましょう。
ここで僕は、トカラ語をやることを勧めます。トカラ語派印欧語族の一言語で、印欧祖語研究の中でそれなりに重要とされています。
先日、僕は以下の本を図書館にて発見しました。
という本です。
この本は本当に素晴らしいです。
何より、英語が簡単で読みやすいです。難しいところがほとんどありません。
次に、900ページ以上かけて説明してくれているので、大変分かりやすいです。
トカラ語をやっている人が少ない分、「これを知っていて当たり前」という記述がほとんどなく、文字通り一から説明してくれます。
すると、印欧祖語比較言語学で必要な知識も自ずとついてきます。
例えば、他の印欧語族の古典語の本では、subjunctive, optative という用語が「知っていて当然」と言わんばかりに説明なしで使われていることがあります。
確かに、そういう基本用語を一から説明し始めるとページ数が膨大になるため、「知っていて当然」という立場で論を進める本があるのは仕方がないことです。
僕自身生成文法の論文を書く際、Merge が何なのかいちいち説明しません。
しかし、このトカラ語の本は違います。トカラ語をやっている人がかなり少ないため、本当に一から説明しているのです。(だから900ページを超えるのだが・・・)
そして、豊富な実例を挙げながら、トカラ語研究の前線まで、読者を置いてきぼりにせず連れて行ってくれるのです。
この本のように、豊富な実例を挙げながら言語の綿密な考察をする分野を伝統文法と呼びます。
Otto Jespersen 等が1900年代前半に中英語~現代英語でやったような分析手法です。
こういう手法は記述言語学寄りで、現代英語のようなメジャーな言語で行っても、もう学術的に貢献できることは少ないので、あまり行われなくなってきました。
それが、今では、トカラ語等の古典語等で行われているのですね。素晴らしいです。
生成文法家は理論先攻ですが、Chomsky が言うように、本来は伝統文法と仲良しな学問領域なはずです。
伝統文法で分かったことを、なぜそうなるのか説明するのが生成文法という学問です。
僕がこの記事で言いたいことは、伝統文法家が何か新しい発見をするのを待つのではなく、生成文法家である僕が、副専攻的に伝統文法的なアプローチを取ってもいいのではないかということです。
伝統文法家も、現代英語を見ている人は割と少ないです。理由は既に述べた通りです。
なので、今、言語学をしていて、伝統文法的なアプローチに触れあう機会は、現代英語に関しては意外と少ないものです。
もちろん、Otto Jespersen 等の著作を読んだりすることで、伝統文法的なアプローチを知ることはできますが、現代英語ばかりやっていると、伝統文法(記述的なアプローチ)がどこまで進んでいるのか分かりにくいものです。
そんな思いを抱えていた僕が、図書館で上の本を見つけて、トカラ語を伝統文法的に綿密に考察しているものを読んで、「記述系はここまで進歩しているのか、すげーな」と感銘を受けても、驚くに値しません。
さらに、トカラ語の記述文法(伝統文法)を読んで、そうした伝統文法的なアプローチで使う道具と、その使い方を学ぶこともできます。
それを現代英語に応用することも僕ならできます(無論、ここは掘りつくされた領域なので、業績になりにくい)。
現代英語の記述だけでは業績にはなりませんが、そこで得た知見を生成文法の分析に還元することもできます。
以上の理由から、生成文法家は、認知言語学等の他の理論言語学に中途半端に手を出すよりも、伝統文法的な記述能力を養った方が良いのかもしれません。
それを養うためには、トカラ語等やっている人が少ない古典語が入り口として敷居が低くていいのかもしれません。
やっている人が少ない分、専門用語を一から説明してくれる可能性が高いです。
それを言うなら世界のマイナー言語の記述もそうなのかもしれませんが、一つの言語の動詞体系に1000ページ近くもページ数を割く本を僕は見たことがありません。
そこらへんは、やはり印欧語族で注目度が高いトカラ語ならではなのかもしれません。