1 Chomsky (2021) の存在
生成文法をやる中で、Chomsky の著作は大きな存在です。
無論生成文法という分野が彼の貢献だけで成り立っているわけではありません。
ただ、Chomsky の言うことにはどの生成文法家も注目しています。
しかし、最近の Chomsky は少し勢いがない感じはしていました。
例えば、1990年代やそれ以前の彼は、10年に一度くらいのペースで大部な著作を完成させていました。
1980年代の Lectures や、1995年出版の The Minimalist Program 等がその好例でしょう。共に数百ページの本です。
The Minimalist Program は厳密には本ではなく論文4本をまとめた論文集ですが、逆に言えば、Chomsky は5年くらいで400ページ近くの論文を書いていたことになります。
ところが、2000年代になると、そういう大部な著作はなくなっていきます。Chomsky 本人が2008年くらいにMIT を引退しているので、さすがの彼も年齢には勝てないようです。
2010年代はかなり悲惨でした。
Chomsky (2013) と Chomsky (2016) があるだけで、他は何もないと僕は思い込んでいました。
Chomsky (2016) に関して言えば、15~6ページしかありません。
さすがの彼ももう終わりかと僕は思っていました。
ただし、YouTube 上には、2020年に行われた Chomsky の学会発表の動画が転がっています。
この動画を見る限り、彼の分析力は一切衰えておらず、むしろ能力値的に以前より上がっているように感じました。
Chomsky はこの動画のためにかなりきちんとした資料を用意していたことがうかがえ、それを論文という形式で発表してくれたらどんなに良いだろうと考え、一年近くの歳月が経ちました。
この発表がもし論文として発表されるなら、Linguistic Inquiry 等の海外の学会誌に載るだろうなと僕は踏んでいました。
しかし、そういう論文の気配すらありませんでした。
そのあとも僕はずっと生成文法をやり続け、Larson (2022) 等、最新最高とも言えるものを参照することもありました。
その参考文献リストにも、Chomsky が何か新しい論文を書いている気配はありませんでした。
どうしてこんなに素晴らしい発表を論文にしないのか、僕は釈然としないまま、2023年に突入しました。
そんなある日、Chomsky の1950年代の論文を探すために Google 検索をしていると、”Minimalism:Where Are We Now, and Where Can We Hope to Go.” という2021年の論文がヒットしました。
なんと、言語研究という日本言語学会が運営する学術誌に掲載されていたのです。下のリンクから Chomsky (2021) をダウンロードできます。無料で。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gengo/160/0/160_1/_article
(印刷したものがこちら)
これを見つけた時、僕は、「まさか、そんな」と思いましたね。
まさかあの講演が論文になっているなんて、しかも、日本の学術誌から出ているなんて。
洋書や英語論文しか読まない僕にとって、日本の学術誌は完全に盲点でした。
どうやら、日本言語学会は、自分たちの学術誌が日本人にばかり参照されていて、外国人に全然参照されていないことを憂いており、世界レベルに知名度を上げる狙いがあったようです。
そこで、『言語研究』に英語の論文を投稿しよう、というプログラムを数年前から進めていていたそうです。
確かに、日本人でも認知言語学や日本語の方言学以外を専門とする人は、『言語研究』に以前から英語の論文を投稿してきたみたいです。
しかし、それでは足りないので、英語論文をどんどん増やそうという流れがあるみたいです。(僕はそもそも英語でしか読まないし書かないので、良く分からないが・・・)
日本人が英語で書くよりも、最初から知名度のある英米人に英語論文を投稿してもらう外注方式の方が手っ取り早く『言語研究』の知名度を高められるので、今回 Noam Chomsky というビッグネームが出てきたようです。
これは完全に想定外でした。
しかし、よく考えれば、当時の日本言語学会の上の方にいた福井直樹先生などは、Chomsky の教え子です。
なので、直接コンタクトを取って、「今度をうちで論文を投稿してくれませんか」という話があったとしてもおかしくありません。
まあ、この際、なぜ日本の学術誌に Chomsky の論文が載っているのかの経緯は置いておくとして、肝心なのは論文の中身と分量でしょう。
分量は破格の40ページ越えです。Chomsky (2016) が15ページくらいしかなかったことを考えると、驚異の長さです。僕も40ページくらいの論文を最近書いたのですが、かなりきつかった覚えがあります。なので、90代で40ページ越えの論文は相当な偉業です。
内容に関しては、講演をそのまま書き起こした感じです。
なので、上の動画に加えて新しいことがあるかと言われると、そんなに多くはありません。
しかし、僕のように上の動画に驚嘆し、感激した人間なら、論文版でも感激するはずです。
というか、論文版の方がはるかにまとまっていて、読みやすくて、分かりやすいです。動画は参考程度で良いのでは?
この論文の良いところを他に挙げておくと、英語が簡単な点です。
Chomsky にしてはかなり英語が簡単です。Chomsky (2008) “On Phases” は一体何だったのかと思うくらい英語が読みやすいです。
Chomsky の英語は年々簡単になっているのか、という変な考察もしてしまいました。
さらに良い点は、この論文の参考文献リストに、Chomsky の2019年の論文や、forthcoming (近刊)が多く載っているところです。
どうやら Chomsky は、2019年から2021年くらいまで、かなりの量を書いたようです。
自伝みたいなのも混じっているので、その全てが言語学的な分析の論文ではないでしょう。しかし、生成文法で先はないと思っていた自分にとっては、かなり朗報です。
こうした、Chomsky (2021) の周辺の情報はさておき、Chomsky 自身この論文でいくつか大きな提案をしています。
ここでは個別にその提案には踏み込みませんが、Chomsky (2021) は確実に生成文法界隈に影響を与えます。
2 教科書も追いついて来る
既に述べた通り、Chomsky は2019年~2021年くらいにかけてかなりの量の論の著作を書いていたらしく、そこでなされた提案は必ず生成文法界隈で検討されます。
生成文法界隈でも、Strong Minimalist Thesis と呼ばれる、かなり厳格に Minimalist アプローチを検討していく人たちには Chomsky (2021) は大きなインパクトを与えたはずです。
少なくとも、Strong Minimalist Thesis (SMT) 論者の一人である僕には、Chomsky (2021) の影響は大きかったです。
SMT 論者は、生成文法界隈でも、原理主義の方に位置します。
Cecchetto, C. and Donati, C. (2016) 等が他の SMT 論者です。他にもいっぱいいますが、僕が今パッと名前を挙げることができ、かつ、読んだことあるのはこれくらいです。
さて、Chomsky (2021) や、その他もろもろもの 2019 年の彼の著作や、さらには近刊書などは、僕たち SMT 論者だけでなく、生成文法界隈全体にも必ず大きな影響を与えます。
それも好影響です。
今まで停滞気味だった生成文法の世界がまた大きく動き出します。これはまるで、The Minimalist Program が世に初めて出た90年代と似ています。
こうした生成文法の理論のアップデートは、英米の出版社から出る教科書にも必ず影響を与えます。
例えば、僕が教科書作りで一番尊敬している生成文法家 Andrew Radford 先生。僕の参考文献リストを見れば分かることですが、僕は彼が書いた教科書を全て読破しています。
僕が最初に生成文法に熱中したのも Radford のおかげでした。彼の解説は分量も適切で(1冊当たり500ページ越え)、群を抜いて分かりやすいので、生成文法の入り口にピッタリです。
さらに、最近の彼の教科書は、章末に詳細な参考文献欄が整備されており、どのアイデアがどの本(もしくは論文)から来たものか、はっきり分かります。
なので、Radford 先生が作る教科書は、生成文法の入り口として機能するだけでなく、そこそこ分かっている玄人が参照する教材としても有用です。
僕は初めて Radford 先生の著作を読んだ時、この人は神の子だなと思いました。
「神の子」とは、たぐいまれなるIQ と努力する資質を生まれながらに持った人に対する僕の呼称です。要するに神童であり、特別な存在です。
どんな人でも、ある程度の分量学問的なことについて書かせれば、その人の能力はもろに出ます。
そんな神の子 Radford 先生ですが、2016年に Analysing English Sentences. 2nd edition. を出してから教科書に関しては執筆していませんでした。(専門書は2冊出しており、どちらも名著)
7年に一度くらいで Radford 先生は教科書を書かれます。
そして、つい先日調べてみて驚いたのですが、Radford 先生は2023年に新しい教科書を発売する予定だそうです。
この教科書は、アマゾンにて、「2023年7月発売予定」とされています。
今、僕がこの記事を執筆しているのが2023年の2月初頭なので、当然僕は中身を見ていません。
しかし、わざわざ教科書をアップデートしたということは、この新しい教科書は、おそらく Chomsky (2021) の内容を踏まえています。
このように、Cambridge や Oxford から出る教科書が Chomsky の最近の理論に追い付いて来るのです。
3 結局英語が読めなきゃ何もできない
生成文法は、2019~2021年くらいまでの Chomsky の活躍により、躍進を続けています。
Chomsky 以外にも、Ian Roberts や Richard K. Larson, Akira Watanabe, Hornstein 等、注目の学者が多いこの分野は、順当に進歩を続けます。
しかし、彼らの著作は全て英語です。
(渡辺明先生はたまに日本語で本や論文を書きます。しかし、僕たちSMT 論者はこうした和書を一切使いません。)
よって、英語が読めないと、この分野ではまともな教科書にありつくこともできず、変に生成文法に対してアンチ化し終了します。
まさに、英語が読めなきゃ何もできません。
研究はおろか、日々の勉強も無理です。入口にも立てません。
これを読んでいる人の一体何割が Chomsky の著作を難しいと思わないくらいに英語を読む訓練を自主的に詰んできたのかは、僕には分かりません。
しかし、この投稿をここまで読んだ人なら、かなりの割合がそうした訓練をしてこなかった人だと思います。
本当にできる人だったら、 Chomsky の2021年の論文のリンクをクリックして、そこでこのブログ投稿の役割は終わります。
僕自身昔は英語が全く読めなかったので、気持ちは痛いほど良く分かります。