学歴コンプは墓場まで【一生治らない】

1美談?

ネットで「学歴コンプレックス 解決」で検索すると、いろいろ出てきます。その中には、「美談」も結構あります。

例えば、「学歴コンプレックス」をバネにして、難関資格を取得した、といった逸話です。

これだけ聞くと、美談のように聞こえます。

しかし、僕の経験上、こういうタイプの人間はかなり厄介です。ちなみに、佐藤優という人も、著作『「ズルさ」のすすめ』で、やはりこういうタイプの人間が危険だと述べています。

なので、この見解は僕だけのものではありません。ご安心ください。

まず、難関資格(公認会計士、司法試験、国家公務員 etc.)を取得して働いている人には、普通に高学歴の人が多くいます。

そこに学歴コンプを持った人が入ってくるとどうなるか。

学歴コンプレックスが余計こじれる

ほぼ100パーセントこうなります。

するとどうなるか。

1年目くらいは、それでいいんですよ。特に周りに害悪を及ぼしまっせん。

しかし、20年目くらいからはマジで悲惨です。ここからは害悪の塊になってしまいます。

具体的には、

高学歴の後輩を執拗にいじめます

僕は、特にエリートコースを歩んだわけではありませんが、教員をしていたころ、40代くらいの先輩教員にこれをやられました。

その人は、高卒⇒28で大学入学(関学)⇒教員、になった人です。ここだけ見ると、美談ではありませんか。学歴コンプをバネに頑張れた(ことになっている)ので。

まあ、実際には、関学はそんなにすごくないのですが・・・

こんな美談を披露してくれるその人の職員室での生態はどうだったかというと、僕を見かけては「東大京大多科目できるだけ」と言うか、難癖付けて僕をド詰めしてくるかのどちらかでした。

ちなみに、彼は、上(その人の先輩)には、媚びを売っていました。

僕がいた職場には、京大卒は僕一人だけしかいませんでした。

そして、この学歴コンプこじらせ系教員は、他の後輩には、一切ど詰めはしていませんでした。

なので、最初の2か月くらいは、僕は、「なんで俺だけやられるのか?」と思っていました。

ちなみに、他の教員(英語課主任のベテラン)からは、「え、○○と一緒? 寺岡さんかわいそう」と言われていました。その人は、僕を助けてはくれませんでした。

ある程度たったころ、僕は、「こいつ学歴コンプやな」と気づくことができました。

そして、その時点で、「もしかして、学歴コンプは20年、30年たっても治らず、結局後輩など、絶対に歯向かってくることがないであろう人たちに、うっぷん晴らしをするという形でしか発散できないのではないだろうか」と思い始めました。

(なお、この仮説には、後年若干の修正を加えました。)

なので、Yahoo 知恵袋などで、「学歴コンプレックスを解消する方法は?」という質問に対し、「私は学歴コンプをバネに、難関資格を取って働いています」という回答がついているのを見ると、僕は思わず、

そこだけ切り取ったら美談やけどな!

と心の中で心の中で突っ込みを入れてしまいます。

結局、難関資格を取って働くなら、周りはある程度の学歴を持っているケースが多いです。

そうなると、上述のような悲劇が、往々にして繰り返されます。

全員が全員そんなタイプではないことを切に祈っっているのですが、この祈りは無意味に終わりそうです。

だからこそ、佐藤優が『ズルさすすめ』でいうように、こういうタイプには、近寄らない、かかわらない、というのがが有効なのです。(できるだけ距離をとるという言い方を彼は使っていたと思います。)

しかし、僕みたいに、職場の先輩として君臨された場合は、なすすべはありません。

まさに「詰み」の状況ですね。

2 決して一位にはなれない

まがいなりにも「人助け専門家」を自称する僕です。やはり、こうした学歴コンプをこじらせた人が救われる道を考えださねば、人助け専門家の名が廃(すた)るというものです。

そして、いろいろ考えた結果がこれ(↓)です。

打つ手なし

基本的には、打つ手はありません。

そう思った理由はいくつかあります。

例の学歴コンプこじらせ系教員の例で話しましょう。

僕に顔を合わせては、「東大京大多科目できるだけ」「彼らマジで大したことない」「彼ら何にもできないよ」という本人は、いったいどれほどできるのか? という疑問を持ち、僕は何度かその人の授業を見に行きました。

そこで僕が下した結論は、

口ほどでもない

でした。

結局、「うっぷん晴らしをせねばならない」=「職業上あんまり充実していない」という構図が浮かび上がってきただけでした。

では、なぜ職業上あまり充実していないのでしょうか。

それは、林修が著書『受験必要論』で述べている通り、優秀な人はまず受験に落ちないからです。

日本の受験というのは、そもそも「ゆる」く、志願者に対して合格者が過剰に多いです。椅子取りゲームで例えるなら、椅子が無茶苦茶ある感じです。

さらに、近年の少子化が、より一層受験の「ゆる」さに拍車をかけてしまいました。

それはさておき、日本の受験というのは、国公立の医学部などの一部の例外を除き、ゆるいのです。

これと対照的なのが中国・韓国の受験です。これらは本当に過酷で、優秀な人ですら落ちてしまう可能性をはらんでいます。

一方、日本の受験では、林修が繰り返し言うように、優秀な人はまず落ちません。つまり、落ちているというのは、無能の証でもあるのです。

僕自身、京都大学に入ってまず思ったことは、「こんなのと同じ学歴になるのか」と思わせる人たちの多さです。

林修が「あんな答案を書いていた、こんな子が(東大に)受かっていいのだろうか」と述べているのと、おそらく似た感覚です。

こんな人たちが大挙して京大に受かってしまっていいのだろうか。こんなのと同じ最終学歴になると考えると、吐きそう。という思いを抱えて、学部の最初の一年目を過ごしたことを今でも覚えています。

そうして、僕の人生観は変わり、「大学受験は、優秀な人をとるためにやっているのではなく、無能をフィルターにかけるためにやっているのだ」という考えに移りました。

ただ、「他の大学の人たちも優秀なんだ」ということを何とかして信じたい気持ちを抱いたまま、社会人になりました。

そして蓋を開けてみると、学部時代に最初に抱いた考えが正しいことが、遺憾ながら証明されてしまいました。

この結論に至るまでの、数々のエピソードがありますが、ここでは、そのすべてを割愛します。

よって、「東大京大は多科目できるだけ」が口癖の人も、僕の親戚にマジでいる「東大京大出たやつ、みんな今つまらんことやってる」が口癖の人も、みーんな実際のところ、どうしようもない無能なのです。

結局無能なので、仕事でもパッとせず、だんだんイライラがたまってきます。

そして、そのイライラと学歴コンプレックスが程よくミックスされたものを適度に誰かにぶつけないとやっていけないのでしょう。誰にぶつけるのかというと、

絶対に逆らってこない職場の後輩や、自分よりも40歳くらい年下の大学生(これは僕の親戚のケース)、そして、匿名でやり過ごせる YouTube 等のコメント欄です。

これらに共通していうことは「おそらくやり返してこない、やり返してきたとしても、地理的に遠く離れているので、直接の被害は少なそう」とうっぷん晴らしをしている人たちが思っているという点です。

正直、うんざりします。

僕は、学歴コンプを脱却するには、その職業や学問分野で、とびぬけて優秀になればいいのではないかと常々思っています。

並みいるライバルに大差をつけ、圧勝するような人は、おそらく学籍コンプレックスを持っていません。

なので、学歴コンプレックスに悩むくらいなら、とにかく自分のやっていることで圧勝することを目指したほうがいいです。

しかし、学問が絡むと、これは非常に困難です。

なぜなら、林修が言うように、優秀な人は受験でまず落ちないからです。

世の中には、優秀で努力家の人がきちんと存在しています。ちゃんと18まで頑張って、そのあともずっと頑張っている人たちです。

それに対し、受験期というごく短い期間すら頑張れなかった人が、その後の人生、20年も30年も頑張れません。なので、頑張れなかった側が、こういうきちんとした層に勝とうという発想が、まずおかしいのです。

これを感じるのが、学術論文です。

残念ながら、学術の分野でも、こういう学歴コンプレックスはありますし、僕の YouTube のコメント欄で、そういう鬱憤を晴らしてくる人もいます。

そして、僕がその人の論文をきちんと読んだ結果下した結論は、

受験はえぐい

です。

その理由は、日本の受験は、やはり、無能を弾くシステムとして機能しており、そこで弾かれた人は、もう何をしても無駄なんだと、感じざるを得ません。

要するに、敗者復活戦は存在しないのです。

僕自身、海外の大学を受けたことがありますが、そこでの質問事には「預金額」や人種も含まれます。大学に寄付をしたかという質問事項すら普通にあります。

ハーバードでは、アジア人が明確に受かりにくいというのは、何年も前から CNN 等で取り上げられています。

一方、日本の受験では、そういう問いは皆無です。人種も、預金額も、寄付歴も聞いてきません。

僕は過去問というのを一度もやったことがないので、毎年そうなのかはわかりませんが、(1)あなたの預金額を答えなさい、(2)あなたの人種を答えなさい、(3)あなたの親もこの大学を出ているか答えなさい、(4)寄付額を答えなさい、といった問題とは、出くわしたことがありません。

日本の入試は、マジで実力とそれまでの努力量しか反映されません。

無能もたくさん受かりますが、ここでまったく振るわないようでは、その後20年、30年でしんどいです。挽回は不可能です。

たとえ、どんなにすごい大学院に留学しても、20~30年でメッキが剝がれてきます。

海外の有名な大学院には、マスター・ヨーダみたいなすごい師匠がいて、その人のおかげで、博論とその後10年くらいは、割といいものを書けることが多いです。

しかし、40代、50代になっていくと、だんだんメッキがはがれてきます。具体的には、そのマスター・ヨーダに教わったことを、20年、30年たってもやっているケースが散見されます。

生成文法も、Windows 95 から Windows 10 になったのと同じように、着々と理論がアップデートされています。

問題の学者の論文をすべて読んで僕が思ったことは、「本質的には90年代から進歩していない」です。

一方、これと逆のケースもあります。

日本の大学で、学部はかなりいいところに行き、大学院は「なんでここに?」と思うところに行った人のケースです。

その人は、ちゃんと有能だったらしく、10~20年かけて、めきめきと実力を開花させてきています。

その人の書く論文を読んで、僕は「この人がやってくれているなら、まだ日本の生成文法界隈は大丈夫そうだ」と、読んでいるこっちが、なんだか心強くなりました。

ここから分かったことは、

長い目で見ると、どの大学院を出たかは、関係ない

キャリアの最初の数年間は、マスター・ヨーダ現象(師匠がすごいと、弟子もすごくなる現象)の影響で、利がある。しかし、20~30年かけて、マスター・ヨーダの影響は小さくなり、やがて金メッキは剥げてくる。

MIT を出て消えた日本人は、実際いる。

学部でどこに入っているかがもっと信頼できる指標である

上のケースの対です。本人が優秀なら、環境が多少悪くても、20~30年かけて、だんだん頭角を現してきます。優秀さは隠せないのでしょう。

こういう意味で、「敗者復活戦はない」という表現を使いました。

どれだけすごい大学院に留学しようが、20年くらいでメッキは剥げます。その人の地力が、だんだん出てくる感じですね。

こういう「地力」を図る手段や指標は、僕はわかりませんし、持ち合わせてもいません。

(心理学をやっている人は、IQ テストという方法で、こうした地力を指標化することを目指しているようですが、それがどれだけ妥当なのかは、よくわかりません。)

ただ、40歳以降、できれば50代~60代で書かれた論文や本を読めば、その人の地力がわかるケースが多い、とだけ言っておきます。

30くらいはまだマスター・ヨーダ効果が持続していることもあるので、なかなかその人の地力は見えにくいです。

僕は、かなりの量の論文や本を読んできたつもりです。ある人の博論から追跡調査したことも、多くあります。

そうして見えてきたのは、「博論はまあまあ良かったのに、年々ダメになっていく人たち」の存在です。

彼らの共通点は何か、僕は必死に探りました。しかし、そんなに必死になる必要もなかったです。

学部でどこを出たか見ると、大体わかってしまいます。別に学歴差別しているわけではないですが、「後年振るわなくなる人たち」の共通点を探ると、この事実が浮かび上がってきたのです。

なので、僕はたびたび、

日本の受験はえぐい

と漏らします。

受験というシステムが、有能を選別しているのではなく、無能を弾いているからです。林修が「優秀な人は受験でまず落ちない」と繰り返し強調するように。

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カテゴリー: Hiroaki

作成者: hiroaki

高校3年の時、模試で英語の成績が全国平均を下回っていた。そのせいか、英語の先生に「寺岡君、英語頑張っている感じなのに(笑)」と言われたこともある。 しかし、なんやかんや多読を6000万語くらい積んだら、ほとんどどんな英語文献にも対処できるようになった。(努力ってすごい) ゆえに、英語文献が読めないという人は全員努力不足ということなので、そういう人たちには、とことん冷たい。(努力を怠ると、それが正直に結果に出る) 今は、Fate Grand Order にはまってしまっていて、FGO 関連の記事が多い。