1,中英語の誕生
古英語(5世紀~11世紀)の終わりごろのブリテン島は、スカンジナビア半島から来たデーン人に半分くらい征服されていた。
もっと言えば、スカンジナビア半島から来た人たちの中からイングランドの王様が出ていた時期もあった。
その後、英語話者であるアングロ・サクソン人から再びイングランドの王様が出るようになる。
Wessexのアルフレッド大王の血筋のEdward(エドワード)という王様である。
この人は、Edward the confessor(エドワード懺悔王)という二つ名が示す通り、信心深い王であった。そのためか、世継ぎを残さぬまま死んでしまった。
ここで、誰が次のイングランド王になるかという争いが始まるわけであるが、エドワードと血縁関係にあったハロルドというWessexの貴族が王になることになった。
それに異を唱えた勢力がいくつかあったが、フランスのノルマンディー地方の領主ウィリアムが一番有名である。
Williamは亡き王エドワードと血縁関係にあり(確か従妹とかその辺)、彼もイングランドの王位を主張できた。
そこで戦争になるわけだが、1066年、ノルマンディー公ウィリアムが勝利を収めた。
フランスの一貴族であったウィリアムがイングランド王になってしまったのだ。
そこからは、予想通り現象が起こる。
ウィリアム王の勝利に貢献した人たち(要するにウィリアムの家臣)がイングランドの貴族(統治階級)になるのだ。
イングランドの貴族(大土地所有者のこと、領主とも言う)全員の記録が残っているわけではないので、詳しいことは分からない。
しかし、イングランドの12人いたearl(貴族の内の1種)の内、ウィリアム王の即位から数年以内に11人がウィリアムの家臣のフランス出身者にとってかわられたらしい。
イングランド人の貴族から土地と爵位を取り上げて、それをそのままフランスのノルマンディー地方出身のウィリアムの家臣に渡す流れだ。
ウィリアムはフランスの一領主であったので、当然フランス語を母語にしている。さらに、ウィリアムの家臣もフランス語母語話者だった。より厳密には、ノルマン訛りのフランス語と呼ばれる、パリのフランス語と若干違う訛りだったが、その辺は訛りのレベルだ。
こうして、イングランドでは、庶民の言語は英語だが、統治階級の言語はフランス語という構図が出来上がった。
宮廷で使われる言語は当然フランス語だったし、公文書もフランス語が当たり前だった。
立身出世を目論む若者はフランス語を学ぶしかなかった。
この時代の英語は、中英語と呼ばれている。
2,英語の復権
ウィリアムの死後、結婚政策の成功により、イングランドはフランスにも広大な領地を持つ国家になった。
相続によって土地を手に入れ続けた結果、フランスを北から南まで突き抜けるほどの土地を得てしまったのだ。
だが、John王(12世紀~13世紀)のころになると、このフランス内の領地を大幅に失ってしまう。
この時、John王の家臣たちには2択が突き付けられた。
フランス王の家臣になるか、イングランド王についていくか。
家臣(貴族)たちは、イングランドにも、フランスにも両方広大な土地を所有している者ばかりだった。よって、どちらを選んでも失うものが大きかったはずだ。
ここでJohn王についていくと決めた者たちが、これからのイングランドの貴族になった。
なので、彼らの国民意識は、「俺たちはイングランド人」であったはずだ。これまでのように、「イングランドにもフランスにも領地持ってるからどちらも母国」という感覚が抜け落ちてくる。
さらに、14世紀になると、フランスとの関係が悪化し、百年戦争に突入した。
統治階級の国民意識はより一層「俺たちはイングランド人」になっていった。
そして、15世紀、100年戦争が終わった時、イングランドは大陸にあった領土を全て失ってしまっていた。
100年戦争のさなか、議会の開会宣言を英国王が英語で行った。これまでは母国語がフランス語の英国王が当たり前で、もっと言えば、英語が話せない英国王も多かった。
厳密には、イングランド王が庶民の言語である英語を蔑んでいたわけではない。
ウィリアム1世王のころから、イングランド王は英語を学ぼうという姿勢が見られた。しかし、ウィリアムが英語を学び始めたのは40代のころだったので、失敗に終わった。
その後2世紀くらいの間、英語を母語としない英国王が続いたのであった。
英語の復権には、統治階級が使うフランス語が、ノルマン訛りであったことも大きく関係していた。
パリの本場のフランス語とはかなり違っていて、パリ人から蔑まれることも多かった。そんな言語を母語というのは、いささか気が引ける。
14世紀末には、ついにChaucerという役人が、The Canterbury Tales『カンタベリ物語』という長編を英語で書き上げた。
Chaucerはフランス語と英語両方が堪能だったため、あえて英語で書くことを選んだことは大きい。それだけ英語の地位が上がってきた証拠である。
かつては庶民の言語であったが、14世紀になると、統治階級にも母国語として受け入れられるようになったのだ。
3,中英語はどのような言語だったか
中英語とは、上記のような11世紀~15世紀ごろに話されていた英語のことである。
11世紀~13世紀半ばまでを前期中英語(Early Middle English)、13世紀~15世紀くらいまでを後期中英語(Late Middle English)というように、二つに分けて考えることもある。
中英語と一括りにしているが、前半は古英語的な特徴を多分に残す言語であった。逆に、後半は現代英語にかなり似てきた。
中英語の時期は、英語は統治階級の言語ではなかったので、それだけ文字記録に残りにくかった。
言語学者の間では常識なのだが、文字記録が多ければ多いほど言語変化が阻害される。
それは、言語変化は必ず話し言葉で起こり、それが文字記録にとどめられるからだ。
親や祖父母世代の記録が残ってしまうと、どうしても「俺らの言語はなんか間違っているのでは?」という、若い世代の不安につながる。
言語は変化しているので、親や祖父母世代と違う言葉遣いになるのが当たり前なはずなのだが、こうした文字記録が多いほど、変化が抑制されてしまう。
先ほども述べた通り、中英語は文字時記録が残されにくい時代だった。統治階級はフランス語を使っており、公文書はほぼ全てフランス語。英語は完全に庶民の物だった。
よって、中英語は言語変化の時代だった。中英語のはじめと終わり頃が大幅に違うのは、このような理由による。
また、公的な場から英語が消えてしまったために、方言差が大きくなった。政府が使う「標準英語」なるものが存在すれば、ある程度言語がまとまりを持ってくる。
立身出世を狙う若者は、そうした政府機関で使われている訛りを習得しようとしたことだろう。
しかし、中英語の前半は、英語は政府の言語ではなっかた。よって、方言差がどんどん大きくなってしまった。
北部方言がより進歩的で、南部方言が保守的だと言われているが、この辺は特に大切な所ではない。
4,音韻変化
13~14世紀ぐらいに、英語に大量のフランス語の単語が入ってくる。
英語が公用語として復活する際、統治階級(貴族、官僚)が英語を学びなおした際、難しい概念(nation「国家」、politics「政治」等)をフランス語の単語をそのまま使って表したので、この時期にフランス語の語彙が大量に英語に流入してきた。
その結果、英語そのものの音韻構造(要するに発音)も変わってしまったとされている。
allophoneという音の組がある。厳密には違う音素なのだが、ある言語では区別しない組み合わせをalloponeという。
区別しないというよりはむしろ、周辺環境からどちらになるか予測可能なのだ。
例えば、古英語では/f/と/v/はallophoneだった。この2つの音素の違いは有声か無声かである。古英語ではこれを区別しなかった。
厳密には、周辺に有声音があればそれに引きずられて/v/になり、無ければ/f/になった。また、語頭は必ず/f/だった。
fiveとかfifthの/f/と/v/もこうして説明できる。
まず、語頭は必ず/f/だった。thという無声音の周辺は無声/f/だからfiftheになる。fiveのeは昔は発音されていたらしいので、おそらくこれに引きずられて二個目のfが有声化し/v/になったと考えられる。
また、古英語では/s/と/z/や、/θ/と/ð/もallophoneだったので、互いに区別していなかった。
語頭は必ず/s/になると言った規則があったので、いちいち区別して考える必要がなかったのだろう。
しかし、フランス語から大量の単語が入ってくる中、zealやvirtueなど、語頭なのに/z/の発音の物が大量に紛れ込んでしまった。
そうして、/s/と/z/がどこに現れるか完全に予測可能だった古英語の構造が崩れてしまった。その結果、中英語では/s/と/z/がallophoneではなくなった。要するに、両者を区別するようになったのだ。
5,中英語の文法
古英語のころと比べて、概して現代英語に近づいてきた。
古英語のころは、名詞同様形容詞も語形変化(屈折)していたのだが、それがほとんど失われてしまった。
名詞の屈折も一部を残してほとんど失われてしまった。
古英語の幹母音-a-型の変化形の類推の形で、他の変化形も変化していった。
古英語期の名詞には様々な変化形があったものの、他の変化形が、ある一つの変化形(幹母音-a-)型の真似をした変化をしだしたのだ。
この変化形は、属格(所有格)に-sの語尾を取った。また、複数形も-sの語尾だった。
古英語期は対格(現代英語の直接目的語)、与格(現代英語の間接目的語)、主格(現代英語の主格)を屈折(語形変化)で表現していた。
ゆえに、古英語期は、語順の自由度が高かった。語尾さえ確認すれば、その単語が主格か目的格か分かるので、当然と言えば当然だ。
しかし、中英語期には名詞の語尾変化がほぼ失われてしまったため、こうした役割を中英語では語順によって表すようになった。
古英語末期から語順の固定化は始まっていた。主な原因はデーン人の侵攻だと言われている。
しかし、中英語期になるとさらに語順の固定化が進むのだった。
また、この時期には、疑問詞を関係代名詞として使用し始めた。
古英語期は現代英語のthatにあたるþeを用いていたのだが、中英語の時期から疑問詞whoやwhoseを用いた関係代名詞が現れ始めた。
6,中英語の人称代名詞
一人称 | 単数 | 複数 |
主格 | ich/ i/ ic | we |
目的格 | me | us |
属格 | mi(n)/ my | ure/ our |
二人称 | 単数 | 複数 |
主格 | þu/ þou/ thou/ þow | ʒe/ ye |
目的格 | þe/ thee | eou/ ʒow/ you |
属格 | þi/ thy | eower/ ʒower |
三人称 | 男性 | 中性 | 女性 | 複数 |
主格 | he/ ha | hit/ it | scho/ sche/ she/ he/ heo | þei/ þai/ thai/ they |
目的格 | him | hit | hire/ hir | þeym/ thaym/ hem |
属格 | his | his | hire/ here | þair/ thair/ ther |
特徴
1,accusative(対格)とdative(与格)がこの時代完全に融合した。古英語末期からこの流れは始まっていたが、この時代、ついに目的格という一つの格になってしまった。(もう形の上で与格と対格の区別はしない)
この変化は北部方言で始まり、徐々に南部方言に広がったとされている。
2,古英語期は双数(dual)という形があったが、中英語期になくなってしまった。双数とは、「私たち二人」「あなた方二人」という、二を表す複数の一種である。印欧祖語では普通にあったこの区別も、古英語期には人称代名詞にのみ残っており、普通名詞ではなくなっていた。中英語期、ついに人称代名詞でも双数がなくなってしまった。(12世紀ごろの南部の写本には残っていたそうだ)
3,3人称単数女性(現代英語のshe)には、色々な異形(variant forms)が現れた。最初は、古英語由来のhe/hoタイプが南部方言で確認された。
続いて、北部方言でscho/ scheタイプが確認されている。これは、驚くべきことに、ルーツがはっきり分かっていない。おそらく指示詞(thisやthatにあたる)の女性形seoから生まれたと考えられている。これが南部方言を駆逐して現代英語のsheができた。(すごい)
4.3人称複数(現代英語のthey. them等)は、古英語期hie等h-で始まるものしかなかった。しかし、スカンジナビア半島出身のデーン人がもたらしたth-系が北部方言に現れはじめ、最終的に南部方言のh-系を駆逐した。(すごい)
参考文献andさらなる読書案内)
Brinton, L. J and Arnovick L. K. (2017) The English Language – A linguistic History, Oxford; Oxford University Press. [分かりやすく書かれた入門書。研究にも使える」
Fennell, B. A. (2001) A History of English – A Sociolinguistic Approach, Oxford: Blackwell. [社会と言語を関連付けたsociolinguistics(社会言語学)の観点から見た英語史。社会が得意だった人には相性がいいかも]
寺澤一友(2011)『英語のルーツ』春風社 [印欧祖語から現代英語までを俯瞰した書籍。日本語で書かれた本でこの分野をカバーしている本は少ないので本当に重宝していた。(今は英語が読めるのでいらない)]