1,これまでの説では、強すぎた印欧祖語話者たち。
インドヨーロッパ祖語(印欧祖語)は、紀元前4500年以前に黒海北岸~カスピ海沿岸で話されていたとされる言語である。
これまでの説によると、車輪の発明以降、この言語を話していた民族はバラバラに離散していき、行きついた先で方言差を発達させる形で様々な言語を発達させたと言われている。
東はインド北部の言語、西はヨーロッパの諸言語に発達したことから、この言語はインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)と呼ばれている。
行きついた先の主要な言語になっていることから、印欧祖語の話者は、移動した先で先住民族を征服したのではないかと考えられていた。
そうだとすると、とんでもない話である。
東はインド北部とイラン、西はヨーロッパのほぼ全領域を、印欧祖語の話者は征服してしまっているのだからだ。
どんな強い戦闘民族だったんだ、という突っ込みが入りそうである。
ただし、複数の言語が混在する地域で主要言語の地位を得るためには、その言語を話す民族が他者を武力や文明力、さらには人口で圧倒する必要があることは知られている。
例えば、ラテン語(ローマ帝国の公用語)の場合、彼らの圧倒的な軍事力、水道橋や道路等の建築技術などで他の文明を圧倒したので、彼らが征服した地域(現在のフランスやスペイン、ポルトガル)等では、ラテン語が公用語になった。
そのラテン語から、現在のフランス語やスペイン語、ポルトガル語が生まれた。
また、北米のネイティブアメリカンの言語の例もある。
イギリスから独立を果たした13州の植民地は、西へ西へと領土を拡大し続けた。その途中で、彼らアメリカ人は、ナバホ語等を母語とするアメリカ先住民と出会った。
しかし、文明力、軍事力、そして人口でアメリカ人が先住民を大幅に上回ったため、現在のアメリカ合衆国の公用語は英語になったのである。
2,印欧祖語話者=農民説
印欧祖語の話者が農業をしていたことは、再建した祖語の単語から確実視されている。
このことから印欧語族のその後の拡がりを説明した学者がいる。
Fennel(2001)は、社会言語学に基づくRenfrew (1997)の説を紹介している。
Renfrew(1997)は、印欧祖語の話者が農業技術を発達させた結果、人口が増えたと推定している。
人口が増えたので、より条件がいい土地を求めて民族移動が定期的に起こったと考えられる。
狩猟採集に比べ、農業は50倍の人口を支えるだけの食物を生産することが可能だとされている。
よって、移動した先でも人口が増え、結果として先住民族に対して圧倒的に有利な形で定住してしまう。
先住民族も、その農業技術(文明力)のおこぼれにあずかろうと、必死に印欧語族の言語を覚えたり、婚姻関係の結果同じ民族の仲間入りを果たしたりしたかもしれない。
結局、農業をしているからこそ、圧倒的に人口が多い方の言語が残ってしまうのである。
こうして、必ずしも戦争をしないまま、どんどん印欧祖語や、その方言が使われる地域が広がり、現在の「東はインド~西はヨーロッパ」まで埋め尽くす世界的にも最大級の語族が誕生してしまうのだった。
確かに、Renfrewの説は一理ある。これだけ広大な地域を全て武力だけで制圧しきるなど、かつてのモンゴル帝国の勢いである。
それほど激しい侵攻があったなら、少しは伝承などの形で歴史に残されていてもいいはずだが、意外と何も残っていない。
さらに、かつてのモンゴル帝国の領土で、モンゴル系の言語がどれだけ使われているのかというと、意外と狭い地域で、少ない言語しか使われていない。
よって、いくら武力で制圧しても、支配が外れると元からあった庶民の言語に戻りがちなのである。
これは中英語期のフランス語と英語の関係に似ている。
結局、話者の数と文明力の相互作用で強い方の言語が残りがちなのであろう。
そこで、Renfrewの農業技術が発展したために民族移動が起こったという説を採用すると、「人口」と「文明力(技術力)」両方の項の説明がつく。
全てのケースがそうだったとは言わないが、かなり説得力のある話である。
参考文献andさらなる読書案内)
Fennell, B. A. (2001) A History of English – A Sociolinguistic Approach, Oxford: Blackwell.
Renfrew, Colin. (1997) ‘World Linguistic Diversity and Farming Dispersal’