1)なんとなく洛南に入る
自分で言うと本当にかっこ悪いのですが、中学時代、僕は勉強に関して言うと、「まあ上の方」でした。
地元公立中学に通っており、1学年200人くらいいる中で、2番手か3番手くらいをキープしていました。
特に自学自習をしていたわけでもなく、『ポケットモンスター・プラチナバージョン』に熱中していた記憶があります。あれは神ゲーでしたね。
そんな自分も中3の秋ごろになると、高校進学を考え始めました。
地元にも偏差値の高い公立高校はありました。そして、自分の学力ならそういった高校に入ることは可能なはずでした。
ただ、 そのような高偏差値の高校でも、 京都大学に現役で合格できるのは、1年に1人か2人くらいでした。
そのことに当時の僕は絶望していました。「自分と同じくらいできる奴らが200もか300人も集まってきて、1人か2人くらいしか受からないのか」と。
そんなある日、教室に置いてあった私学のパンフレットをあさっていると、洛南高校という聞いたこともない学校のものが目に留まりました。
そのパンフレットによると、洛南高校からは、京都大学合格者が1年に100人以上出るらしいのです。さらに、募集はⅢ類A90人、Ⅲ類B90人の足して180人ほど。
合格者は毎年変化します。しかし、200人未満の募集で100人くらい受かるということは、洛南に入れば、半分より上にいれば京大に入れるようです。
それで舞い上がってしまって、クラスの友達に「俺、洛南行くで」と言ってしまいました。本当に、後先考えず、ノリでした発言でした。
しかし言ってしまった手前、落ちてはかっこ悪いものです。
その日から、当時の自分にしては割と真剣に頑張りました。なんと、過去問に目を通したのです。(エライ)
その甲斐あってか、何とか洛南高校Ⅲ類Aに合格することができました。
ただ、僕には舞いがった記憶はありません。きっと洛南には各中学のトップ層が来ているはずです。そこでの競争は熾烈なものになるに違いなかったからです。
洛南に行ったからと言って、全員が京大に受かるわけではありません。半分より上にいなければならないと、その時は思っていました。
ただ、その考えがいかに間違っているのか、すぐに思い知らされることになるのですが。
2)僕は下の方でした。
思った通り、洛南には色々な中学からトップ層の人が来ていました。このことは完全に想定内でした。そして、クラスの中で自分が下から数えたほうが早いこともまだ想定内でした。
完全に想定外だったのは内部進学組の存在です。
内部進学組(通称 内進)は、洛南中学から上がってきた連中です。そもそも、洛南中というものの存在自体当時の自分は知らなくて、しかも彼らが勉強で自分たちより1年以上進んでいるなど、
完全に想定外でした。しかも、そんな内進生が1学年に240人くらいいるのです。
洛南から京大に行けるのは、年間100人くらい。そのうち現役は60人くらい。(現役、浪人という概念も高校に入ってから知りました。)
つまり、現役で京大に受かるためには、内進生をある程度の人数追い越さねばなりません。そもそも、僕は高校からのクラスでも下の方でした。
要するに、洛南では、僕は下の方でした。
それまで、直接会う人は勉強では僕より下ばかりでした。はっきり言って、僕より明確に勉強ができる人に、中学卒業時点まで遭遇したことがありませんでした。
しかし、洛南では、賢いやつらがゴロゴロいて、「勉強ができる」という観念で自分のアイデンティティを形成していた僕にとっては、最初はショックが大きかったです。
同じようにアイデンティティが崩壊している人たちが同じクラスにもたくさんいました。
きっと彼らも、「自分」=「勉強ができる」と思い込んでいて、洛南という場所でいきなり、「自分」=「勉強では下の方」になってしまった人たちなのでしょう。
そういった人たちの内、多くが「勉強を諦める」という選択肢を取っていきました。
そんな彼らの姿を見て、僕は「絶対にこんな風にはなりたくないな」と思いました。
よって、努力して上を目指すことに決めました。
そうして、高3時には模試で校内順位が51位くらいにはなりました。1学年400人以上はいるので、上位10%である40人には入れませんでしたが、内進生にかなり食い込んでいます。
外部進学組(高校から洛南のコース)の中では、定期テストでも上から10番くらいに入ることも多かったです。
これなら京都大学も充分狙える位置と言えそうです。
3)それでも英語はダメでした
一見順調に学力を伸ばしているように見えますが、数学や社会のおかげです。
世界史が好きで、高校1年の時の文理選択で、文系に進みました。
理数も人並みにはできていたので、担任の先生からは、「お前なら文系理系どっちでも行ける」と言われていました。
ただ、高1時に洛南という場所、さらに高校の勉強に圧倒されていた僕は、「少しでも楽な場所」に逃げたいという思いに駆られていました。(やはり人間ですね)
そんな時、化学の先生の、「文系は楽です。先生は嘘をつきません。文系行ってお金稼いだらええやん。」という言葉が決定打になりました。
そして、後先考えず、「文系にします」となりました。
既に述べた通り、数学はある程度できたので、そこまで苦労せず偏差値を伸ばすことができました。
世界史も元々好きだったので、全く苦になりませんでした。
問題は英語です。
実を言うと、洛南では、英語は非常に恵まれた環境で勉強できたと思っています。
何せ、あの竹岡広信先生に教わっていたのですから。
竹岡先生は、非常勤講師として、洛南に週二回教えに来てくださっていました。
最初は、竹岡先生が有名講師だと知らずに、「えらい怖い先生やな」とだけ思っていました。
ただ、竹岡先生の参考書は非常によくできているものが多く、『英文熟考(上・下)』(旺文社)は、英文法を原理や歴史から説明した最高傑作だと思っていました。
そしてそれを何週もやりました。やるたびに新たな発見があり、楽しかったです。
それに、英単語の語源(ルーツ)を紹介したり、多義語(複数の意味を持つ英単語)のそれぞれの意味のつながりを説明しようとした意欲作『ドラゴン・イングリッシュ必修英単語1000』(講談社)も、読んでいて引き込まれました。
先生本人は、『決定版 竹岡広信の 英作文が面白いほど書ける本 』(KADOKAWA)を推されていましたが、言語の原理やメカニズムにばかり興味が偏っていた僕にとっては、個別言語(英語)の運用
たる英作文には、あまり興味が持てませんでした。(多分この辺からすでに言語学研究の素質が見え隠れしています。)
上記の3作品をやりこみました。具体的には『熟考』8週。『ドラ単』覚えるまで。『英作文面白本』付録以外5週。(付録はやらなかった。)
しかし、模試では英語は決定的にダメでした。
具体的には長文が全然ダメでした。
まず、模試を制限時間内に解き終わることがありませんでした。長文を読むスピードが遅いし、読んでもさっぱり意味が分かりません。
結果として、高校3年の時の全国模試では、英語の偏差値は45でした。
今思えば、長文への有効な対策である多読をしていなかったため、こうなるのは当たり前のことです。
竹岡先生はことあるごとに多読の重要性を説いてくれていました。高2の時に夏休みを全て使って多読をやりまくると、実際に英語の偏差値は80を超えるところまで伸びました。
しかし、それ以来多読を一切しなくなりました。
すると成績は徐々に下降していき、並くらいになりました。
そして高3での偏差値45。
やるべき対策、努力を怠っていたので、当然と言えば当然かもしれません。
ですが当時の自分にとっては、「英語」=「苦手」の構図が出来上がってしまって、英語の勉強が苦痛になっていきました。
まずい流れです。
そして迎えたセンター試験で、英語は試験時間内に長文を読み切ることができず、159点という屈辱的な点数を取りました。
京都大学を目指すくらいの人ならば、190以上は当たり前の試験でこの有様です。
人気講師竹岡広信に教わってもこのざまだったことに、自己評価はどんどん下がりました。
4)最後の悪あがき ~自習最強説~
世界史が好きで、京都大学文学部に入って、西洋史の勉強をするという夢がありました。
しかし、センター試験で惨敗してしまい、京都大学文学部に受かる見込みはほとんどなくなりました。
絶望していた自分に、担任の先生が、「志望を変えるか?」の一言。
その瞬間「終わったな」と思いました。
洛南には、京都大学に来るために来ているつもりでした。それで京都大学に行けないとなると、ほぼ完全に「死刑宣告」です。
ただ、先生の言葉には続きがあって、「学部を変えるか?」でした。
京都大学には、総合人間学部という学部があり、文学部でやっていることは大体やっている。それにここは2次試験重視なので、まだ望みはあるとのこと。
最後に先生は、「お前は人事を尽くした側の人間だ」と言ってくれました。
人事を尽くすとは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の一部分で、やれる努力、準備をしっかりやって、本番は運の要素が絡んでくるので、心穏やかに迎えようという考えです。
つまり、先生は、自分の努力を認めてくれていたのです。
洛南という場所は、クラスメイトが全国模試で3番だったり、英語で1番だったり、というのが日常茶飯事な場所です。
そんな人たちに囲まれてしまうと、自分という存在が本当にちっぽけで、ゴミ虫みたいに思えてきます。
でも、そんなちっぽけな自分をちゃんと見ていてくれた人がいたことが本当にうれしかったのです。
自分のことを認めてくれる人がこの世界に一人でもいたことが、本当にありがたかったのです。
そして、それに応えたい。ちゃんと勉強して結果を出したい。という強い思いが湧いてきました。
そこからは、本当に楽しかったです。
センター試験から2次試験まで約1か月、朝から晩まで好きな勉強を好きなだけやりました。
このときが人生で一番勉強に集中できた時間であり、一番充実していました。
本当に毎日が楽しくてたまらなかったのです。
洛南は、進学校で勉強の進度も早いです。その結果、大量の「ついていけない生徒」を生み出す危険性を抱えています。
ゆえに、課題を出しまくって強制的にやらせるという方法が採用されています。
この方式は、半ば強制的に勉強させるので、下位層を作ることを防止する効果が期待できます。
しかし、できる層は、放任主義で、自分の勉強を好きなようにやらせていた方が伸びるはずです。
むしろ、強制されるとモチベーションが下がると思います。
僕もそういった人の一人のようでした。
センター後は完全に個人の自由に勉強ができます。課題もありません。
そこで僕は本領を発揮できました。
京都大学総合人間学部は、配転が英数重視です。
よって、苦手かつ配転の大きい英語を重点的に勉強しました。より具体的には、英語長文です。
高2、高3と竹岡先生は英語writingの担当をされていて、自分は英作文はかなり教わったという認識があります。
しかし、竹岡先生に英文読解や長文読解を教わる機会がほとんどありませんでした。
(だから長文があんなに弱くなったのだろうか)
そこで、『竹岡広信のトークで攻略 京大への英語塾』を、長文の所だけ3週くらいしました。英作文のセクションには一切手を付けていません。
その結果、本番では英語115点(150点満点)で合格できました。
参考までに、2次試験各教科得点を以下に記します。
国語75点(150点満点)
数学115点(150点満点)
英語115点(150点満点)
世界史69点(100点満点)
こうして、約50点を余らせ、京都大学総合人間学部(文系)に入ることになりました。
最後の1か月勉強をしていて、そして、2次試験会場でも思ったことが、ここまでこれたのは、決して自分の力だけではない、というものです。
各教科の先生にかなりお世話になったことは言うまでもなく、こうして自分が勉強に専念できる環境を作るのにどれだけの人が苦労しているのか。
そして自分が折れそうなときに支えてくれた家族や担任の先生に感謝の気持ちで一杯になっていました。
たかが受験勉強と言われかねないのですが、そこからたくさんのことを学びました。
そしてそれは今も自分の中で生きています。
と、なんかいい感じになったところで、今日は終わりです。
ついでに言っておくと、本当の試練はこの先でした。これからの試練を考慮すると、受験など、所詮「水槽の中の制限されたフィールドでの戦い」でした。
大学入学後は、ルール無用、フィールド無制限の戦いになっていきます。