こんにちは、久しぶりにPC でブログを書いています。
僕は生成文法という分野を、それなりに真剣にやっています。
(ほかの分野ではどうなのかわかりませんが)、この分野は、文献は本でも論文でも英語で書かれたものしかありません。
それが読めなきゃ無限留年⇒放校になって終了です。
ちなみに、「ゆる言語学ラジオ」さんは、英語文献が読めないので、言語学ネタをするときは、いちいち出版社の力を使って専門家を召喚しています。(これはマジ)
彼らの動画には「生成文法回」があります。和書しか読めないくせに「生成文法」とでかでかとサムネに書いてあって、見ているこっちは、かなりいやな気持になりました。
これではまるで、和書で何かできるみたいじゃないですか。
さらに、和書を読んでも何もできなかったから出版社の力を使って専門家を召喚しているのに、なぜか視聴者に和書を売るとう、謎な行動。
これはさすがにどうかと思います。
出版社の力を使って専門家を読んでいるなら、動画内でも概要欄でも、その旨を申告すべきです。
また、そうしなければならない原因(=和書を読んでも何もわからない)を申告したうえで和書を売るべきだと僕は思います。
そのほうがフェアじゃないですか?
それはさておき、本題。
論文がガチャと化している件
これまで、僕は、決して少なくはない数の論文を読んできました。
もちろん、すべて英語論文です。
そして感じたことは、「良いものはかなり少ない」です。
「この論文に出会えてよかった」「この論文があったからこそ、自分の研究が継続できた」と感じるレベルのものは、正直ほとんどありません。
もちろん、そこそこ良い、というレベルのものには、一定の確率で遭遇します。
しかし、そうした論文(や本)の数も、年々減ってきているという感触があります。
まず、(近年の)統語論における論文の大多数は、以下の2つに大別皿ます。
①最新の枠組みに基づかないもの
10年前の枠組みを「最新」と呼んでよいのかわかりませんが、2013年ごろから、Chomsky は Labelling algorithm という枠組みを提示しています。
この枠組みの出現により、従来の X-bar 理論は亡き者になる、な図でした。
しかし、2020年代に出版された本や論文集、さらには Linguistic Inquiry といった超名門の学術誌に載っている論文の多くが、従来の X-bar 理論に基づいて書かれています。
この現状に、僕は半分納得をしています。
labelling algorithm が提唱された背景には、(1)人間の言語能力は進化によって獲得されたものであり、(2)一度の進化で X-bar の形式のような複雑な構造がどうやって生まれたのか説明できない。
という事態があります。
なので、labelling algorithm は、どうやって X-bar の形ができるのか、というメカニズムを探ろうという取り組みでもあります。
なので、わざわざこれに手を伸ばさず、従来の X-bar の枠組みでやっていても、まあ支障はないはずです。
ただ、labelling algorithm だからこそわかってきたこともあるので、もっと積極的にやってもいいと思うのですが…
現状は、2020年代に出版された学術誌を開けて、試しに論文を読んでみると、ほとんどの場合、X-bar 理論でやっています。
②論文を量産するということを至上の目的として書かれたように感じざるを得ないもの
もっと問題なのは、これです。
2010年代以降の論文に対し、こう思うことが割と多いです。
ちょうど、「世界大学ランキング」とか言い出したころです。
このころから、論文の数=大学のランキング、という図式が誕生したような気がしてなりません。
一研究者の評価も、論文の数×被引用数(どれくらい引用されたか)、になっている気がしてなりません。
この流れが、本当に健全だったのか、僕は非常に懐疑的です。
どんなシステムでやっていても、「攻略法」というものが存在します。
例えば、京都大学入試の攻略法は、「数学で高得点を取る」です。
京都大学は、数学が一問30点なので、他人より一問多く説くだけで、一気に合格に王手をかけることができます。
逆に、他人より一問少なくしか解けないなら、合格は一気に遠のきます。
多くの予備校や進学校が既にこの事実に気が付いていて、数学偏重のカリキュラムを施行しています。
果たして、「英語文献ばっか」の言語学にとって、それがいいことなのか。
さて、研究の話に戻りましょう。
「論文がたくさんある=研究者としての評価が高い」、という事態になっているせいか、論文を量産することを目標にしているとしか思えない論文に出会うようになりました。
この評価基準だと、そういう風に立ち回るのが、「賢いやり方」であり、攻略法なのでしょう。
具体的にどこの誰とか、どの分野がそうだとかは言いませんが、本当にどうでもいいことを扱った論文が増えました。
というか、最新の枠組みでは、すでに解決済みになったことを、旧来の枠組みを使って論じてしまっているものまであります。