1 失った物
僕は英語多読を6000万語ほど続けてきました。多読を続けると確かに英語を読む力は上がります。それは確かです。ここまで多読を続けた僕が言うので間違いありません。
偏差値45から英語多読6000万語した結果 – 言語学研究家・Hiroaki (linguist-ht.com)
しかし、それと引き換えにありとあらゆるものを失います。以下に僕が失った物を挙げてみました。
①健康
これは一番大きかったですね。「元気があれば何でもできる」というのはよく言ったもので、僕もそう思います。
しかし、多読を頑張りすぎるのは体に良くなかったみたいですね。「健康な心身」が失われました。この点は、②と一緒に語ります。
②体重
多読をすると痩せます。僕に関してはこれは事実です。僕の身長は178~9㎝ですが、体重は57~8㎏です。
BMI を算出しすると以下のようになります。
身長を低めに、体重を重めに申告しても、こうなります。
明らかに痩せすぎですね。
僕が不健康なほど痩せているというのは、僕の過去の動画からも確認できます。
外国語ができない側の共通の言い訳「年が・・・」 – YouTube
なぜ痩せるのかというと、多読により自律神経がやられてしまっているからです。
お医者さんにも聴いたので、これは本当の話です。
人間というのは所詮生物で、心臓の拍動や発汗を自分の意思でコントロールできません。
唾液の量もそうです。
こういうものをコントロールしているのが自律神経というものらしいです。
そして、緊張状態や極度のストレスが長期間続くと、僕みたいに自律神経を壊してしまうのです。
例えば、僕の症状は、英語を読んでいると唾液の分泌が止まらなくなることです。
緊張状態で口が渇く人と、唾液がどんどん出てくる人がいると思います。
僕は後者でした。
英語多読を続ける限り、どんどん唾液が出てきます。僕はこれを止めることはできません。
そして、その唾液を飲み込みます。(それ以外の選択肢はない。)
すると、それでもうお腹がいっぱいになります。
厳密に言えば、お腹は減ります。
しかし、お腹いっぱいご飯を食べると、後で地獄の苦しみが待っています。その後どんどん唾液が出てきて、それを飲み込む以外にないのですから。満腹になるまで食べると、後になって、胃が破裂するかという経験ができます。
なので、僕は満腹になるまで食べることは本当にまれです。
後で唾液が出てきても自分が耐えられる痛みくらいまで食事を制限してきました。
そうして、BMI 18 (痩せすぎ)が誕生してしまったのです。
昔、出てくる唾液を全て吐き捨てようと試みたことがあったのですが、すぐに諦めました。なぜなら、脱水症状になったからです。
そういうわけで、僕は多読を始めてからこの症状と戦い続け、負け続けてきました。こういう症状を「呑気症」というらしいです。
林修先生が「ストレスで痩せる」という理由がこれです。
高校時代70㎏あった僕の体重はあれよあれよという間に落ち続け、60㎏を割り込むことが「普通」になりました。
こうなると、鏡で見る自分の姿はもはや「骨」です。
ここまで痩せると、様々な弊害が出てきます。
まず、睡眠障害です。寒すぎて起きてしまったり、寝れないことが多いのです。
それ以外には倦怠感ですね。すぐ疲れます。
さらに、コレステロール値が低すぎて健康診断で引っかかったこともあります。
これは医学的な根拠がないのですが、コレステロール値が下がると血がさらさらになるようです。
ここ5~6年で僕は「ぽっちゃり体形」から「痩せすぎ」に変わったのですが、それからというもの、手術をすると必ずお医者さんに「予想よりも出血している」という旨のことを言われるようになりました。
また、物忘れが多くなった気がします。これはお医者さんに聞いたことですが、体が痩せてくると脳も痩せるそうです。
脳というのが「リン脂質」という成分でできているらしく、痩せすぎな人は「リン脂質」が不足するので、脳が小さくなっていくそうです。
お医者さんという仕事は、なるためにも、そしてなってからも何人も解剖(もしくは手術)していく職業なのだと思います。
それだけ解剖すると、痩せている人は脳も小さいという共通点に気が付くのかもしれません。
しかし、僕にはどうすることもできません。
ご飯をお腹いっぱい食べたいという気持ちはありますし、食欲も人並みにはあります。
しかし、唾液の量をコントロールすることはできません。どうしたものか。
③人間的な生活
人間、痩せすぎると、ろくなことがありません。
健康面以外でも、人間的な生活を失った気がします。
30年近く生きてきて初めて知ったのですが、人間はリラックスできる環境が必要みたいですね。
僕の場合はいつでも、どこにいても勉強を中心に他の全てのことが回っていました。
家に帰っても、時間の許す限り勉強。それが普通でした。
勉強をすることがあまりにも当たり前だったため、自分は「勉強していない時間が何か罪深い」と感じていました。今もそう感じています。
多読を始めてからというもの、呑気症のせいで勉強に使えない時間がよく生まれていました。
胃が張り裂けると思うくらいの苦しみの中、多読を続けることはできません。
しかし、食べないといけない。これは僕にも分かります。
お医者さんに相談して僕が出した結論が、「食後数時間を捨てる」でした。
僕にとって、食後2-3時間はこうした「勉強に使えない時間」です。
集中しなくても時間を溶かせる YouTube やアニメ、さらには amazon prime の映像配信にこれまで数千時間を溶かしてきました。
呑気症のため、元々こういった時間に勉強ができないので、それ以外に何もできないからこうしているのです。
しかし、自分は「勉強していない時間がな何か罪深い」と感じる人間でした。
映像娯楽を見ても、そこには虚無しかありませんでした。
こうした「無駄な時間」を、何か生産的な活動に変え、収益を発生させたい。そうして得た収益で勉強に必要な本を買いたいという思いで、僕はブログを始めました。
よって、僕がブログを執筆している時間は、本来ならば呑気症のせいで勉強に使えない時間です。(僕のブログの更新時間に周期性があるのはこのため)
ゆえに、こうした時間は元々僕にとって意味のない時間です。
しかし、こうした「無駄な時間」で作ったものから現に収益が発生しています。
さらに、どうやら書くことは僕の得意分野だったらしく、なかなか有意義な時間を過ごせています。
ブログのおかげで僕は割と「人間的な生活」に戻れてた気がします。
④「普通の」人生
僕は何年も自室にこもり、英語を読めるようになるために戦い続けてきました。
異常者みたいですが、今振り返ると、これが僕の本性なのかもしれません。
そのあと、半年くらい働いて、そこでカルチャーショックを受け、京都大学の大学院に戻ってきました。
京都大学の外の世界を見てから、再び京都大学の内部を見て気づいた点があります。思った通り、京都大学の学部の選抜というものが、英語を読めない人間を生み出しているという点でした。
京都大学に入るため、皆多科目をします。英語だけに注力することはできません。その結果、典型的な京大生は英語が弱くなります。
僕は英語教師として働いていたのですが、そこで出会った人の多くが「英語系」であったことにカルチャーショックを受けました。
「英語系」というのは、中学・高校時代、そしてその後も、他のすべての科目を犠牲に、英語ばかりやって来た人たちのことを指します。
帰国子女等でない限り、世間的に洋書を普通に読む人は、こうした「英語系」の人ばかりです。
そして、「英語系」の共通点は、英語以外何もないことです。
しかし、僕は京都大学に入るためにこうした「英語系」の人たちの真逆のベクトルで突き進みました。
そんなことをしていたのに、英語を読む訓練を続けてしまったため、割と「珍種」が出来上がってしまったようです。
そもそも、洋書を僕みたいに難なく読める日本人というのが既に少数派のようです。
電車内で洋書を読んでいると、「え?」という目で見られることがあります。そんな時は、本のタイトルページについている「京都大学図書」というシールが見えるように僕は姿勢を微妙に変えることがあります。嫌なアピールですね。
洋書を読める人と話していると、要所要所で、「あ、この人は英語系だ」と感じることが多いです。
そういう人は考える力が低く、英語以外何もありません。中学・高校時代、そしてそれ以降も英語に専念してきた人たちです。
こういう人たちと一緒にいると、僕はしんどくなってきます。
逆に、「この人は考える力が高い」と僕に思わせるような人と一緒にいると、疲れにくいです。
こうした考える力の高い人は、やはり優位に京都大学に多いです。しかし、彼らは僕みたいに洋書を読めないケースが多いです。京大に入るために、数学等英語以外の科目に注力した証でもあります。
僕からすると、京大の学部に入った人なら、英語論文が読めなくてもしょうがないし、同情もできます。
京大の入試は多科目を問います。そこで一科目捨てて挑むのは正直、自殺行為です。その結果、英語・数学・国語・古典・漢文・日本史・世界史・理科(1科目)全てを勉強する羽目になります。
その結果出来上がるのは、英語があまり読めない人です。
英語を読めるようになるための修練時間を1とすると、僕たち京大生が英語1科目にかけられる時間は、せいぜい10分の1くらいです。
なので、京大生の多くが洋書が読めなくても、ある意味仕方がないのです。これは大学の選抜方式というシステムが生み出した結果であり、個人に一切の責任はありません。
なので、自分と気が合う思考力の高い人達とは読んでいる本が全く合わず、洋書が読める大半の人とは思考回路が合わないのです。
多読の行きつく先がこれです。
日本に住んでいる限り、人口の大多数は僕が読んでいる洋書に歯が立ちません。小説でも、言語学でも、なんでもそうです。
そんな中、僕が「言語学をするのは洋書と英語論文を読むしかない」と言っても、なかなか受け入れてもらえないのが実情です。
大多数は和書だけ読んで、そのまま何も知らず人生を終える。これが日本人としての「普通の人生」だったのでしょう。
日本というのは不思議な国で、洋書を読む担当の人というのがいます。彼ら(彼女ら)は翻訳家と呼ばれ、せっせと読んだものを日本語に訳します。
日本人の大多数は、こうして出来上がった書物を読みます。
しかし、翻訳にはお金が必要なので、数万部売れるような小説が多く訳されます。
David Pesetsky の博士論文など、日本で500人くらいしか読まない物には翻訳が出ません。そんな物訳してもお金にならないからです。
500人の読者が英語を読めるように修練を積んで挑むほうが経済的に理に適っています。
僕は知らず知らずのうちに修練を積んだ側の人間になっていたみたいで、日本人で500人くらいしか読まない Pesetsky の博論を読むという普通の人生とかけ離れたことをしています。
逆にこうしたことしかしてこなかったために、YouTube でも、言語学研究室でも「言語学をやるなら英語を読まないと話にならない」と言ってしまいます。
そして叩かれます。
しかし、自分の言っていることが正しいのです。
しかし、和書だけ読んでいる人が人口の大多数です。なので正しいことを言っても叩かれます。
⑤人間関係
僕が多読を続けるため、そして、多読をしてきた結果、人間関係的な部分をかなり犠牲にしてしまった感はあります。
まず、「どっか行かない?」と聞かれても、僕の答えは決まって No です。自分一人で勉強したいからです。
そういうことを続けていると、どんどん孤独化しやすいですね。僕は好きでやっているのですが。
さらに、自分がここまで多読をやっているせいか、参考文献リストが和書ばかりの人を軽蔑しています。
ただし、言語学というフィールドが「洋書をどこまで読めるか」という競技となってしまっている以上、僕のアプローチもあながち間違ってはいません。
これで友達が増えることはありませんが。
2 得た物
英語を読む力
これだけです。
ただし、英語の多読をこれまで続けてきて思うのが、「楽しかったな」です。
もちろん苦しい時の方が多かったですが、思い返すと自分が読んで面白いと思う物を読んできました。
なので、全般的には楽しかった記憶があります。
また、多読を重ねるうちに、苦しさのレベルが低くなってきました。
1000万語くらいまでは、尋常じゃないくらい苦しかったです。
2000万語くらいまでは、そこそこ苦しかったです。
3000万語くらいの時は、かなり楽になっていました。
4000万語くらいの時は、小説以外の専門書にも手を出す心のゆとりが生まれていました。
5000万語くらいの時は、自分の専門性が育ってきました。
6000万語くらいで、「立つ」という感じですね。