京大卒の悩み【高学歴あるある?】

洛南高校卒

京都大学総合人間学部(文系)現役入学

一留(就職浪人・単位はそろってた)

現在失業中

が語る京大卒の悩み。

1)世間のイメージと違う

京都大学卒と聞いてどんなイメージを持つかは人それぞれ。

僕の場合は、ある人が京大卒だと聞いても「それだけでは判断できない」としか思えない。

その理由は、京大生には3種類いるからだ。

1種類目:上位層

京都大学の上位層は本当にすごい。京大を説明する時僕はよく「京大は上が本当に果てしない、けど下は結構下」と言う。

この「上が果てしなく上」というところが京大の特徴である。この層は本当にすごく、京大内でも他者を大きく突き放している。

例えば、ディケンズの原書をすらすらと読みこなす法学部1回生。ディケンズの英語とは、現在26歳でChomskyを原書で直接読めるレベルの自分でも多少てこずる難易度である。そんな洋書を、18歳くらいで、他の科目もしっかりと勉強している中で難なく読みこなす人がいる。

こんな人と遭遇してしまうと、自分がいかに勉強の才に恵まれなかったのか、嫌と言うほど分からされてしまう。

2種類目:中位層

京都大学に合格するのが妥当だと思えるくらいの学力の持ち主。ここまでが普通の人が努力で到達可能な領域である。要するに、持って生まれた側でなくても努力次第でここまでは行けると、少なくとも僕は信じている。

この層の特徴として、高校の範囲で、かつ高校生でも分かる形で問われた問題の場合、きちんと準備して臨めば、上位層と比べても数字上は見劣りしない点数を取れてしまう点にある。

例えば、平均点が40点くらいのテストがあったとしよう。上位層は安定して96点くらいとってしまう。ここで中位層は、努力を積み、きちんとしたコンディションで臨めば、80点くらいとれてしまう。

努力に努力を重ねて、ある程度の成績が取れてしまう。ゆえに、この層の特徴として、自分に勉強の才能があると勘違いしてしまう点にある。

本当は、高校の範囲という、限られた範囲での勝負で、死に物狂いでやっととった点数なのに。

こうして、死に物狂いで勉強をしてしまった結果、勉強以外がかなりおろそかな状態で京都大学に入ってしまう。そこで、自分がどうあがいても勝てない層がいると思い知らされるのだ。

勉強ばかりやってきたせいで、それ以外のこと、例えば、面白いことが言えるとか、集団の中でうまくやって行けるとか、そういったことが苦手になってしまっていることが多い。

さらに、勉強ばかりやってきたせいで、「自分のアイデンティティ(自己像)=どれだけ勉強ができるか」になってしまっている可能性すらある。

そこで、かなり余力を残して京都大学に入ってきた層と出くわしてしまうのだ。

上位層は、京都大学に入るのに、相当な余力を残している。勉強以外にも打ち込んで、それでも1科目受けなくてもまだ受かるくらいの余力を残している。だからこそ、大学の勉強にもすぐに適応できる。

一方中位層は、確かに一定の余裕を持って入学しているが、あくまで高校の範囲の勉強の話。こうこうより遥かに難易度の高い大学の勉強はさすがに厳しい。

だからこそ、上位層と中位層の差は、大学に入ってからどんどん大きくなってしまう。

中位層は勉強ばっかりして大学に入った側である。それが、どんどんおいて行かれてしまうのだ。これが現実である。

僕は中位層でも下の方。分かりやすく言えば、中の下くらいだったと思う。

3番目:下位層

この層の特徴として、入試でギリギリの点差で受かっていることが挙げられる。彼らの共通の口癖は、「開示点なんて関係ない」である。

さらなる特徴が、The woman behind whom I was sitting was wearing a big hat, so i couldn’t see the screen. という文を見せると、決まって「私の後ろに座っていた女性が・・・」と訳す点にある。関係代名詞が分かっていないのである。

この層をたくさん見てきた自分の感想は「彼らも同じ京大卒か。これと同じ評価になんのか」である。

はっきり言って、京大下位層は、京大に入ってきてほしくなかった人たちである。

ここまで読んだら分かると思うが、「京大卒です」という人を、それだけで一体どうやって判断するというのだろうか。

上・中・下で全然違うのに。

だからこそ、僕は「京大卒です」という人に、「京大卒」という判断材料だけで評価を下せないのだ。よって、「それだけでは判断できない」と心の中で思うことにしている。

だが、世間一般はちょっと違うようである。

人生で何度か出身大学を聞かれたことがある。

そこで、「トマト大学・トマ大です」と言うと舐めているように聞こえるから、正直に「京都大学です。文学部が無理やったんで総合人間学部というところを受けました。教養学部だと思ってください」と言うようにしている。(無論、「京都大学です」だけで止めることが多い)

すると、多くの場合「むっちゃすごい」とか、「ロザンの宇治原みたいになんでもすぐ覚えちゃうんでしょ」等の反応が返ってくる。

そういう反応にあうたびに僕が思うのは、「なんか違う」である。

多分、世間の京大生像と実態がかけ離れているのであろう。

世間の京大生像とは、京大上位層の影響を受けたものではなかろうか。そもそも我々中位層に勉強の才能があるのかどうかすら怪しい、ましてや「見たものを一瞬で覚える能力」なんて持ち合わせていない。

われわれ京大中位層の実態は、小学校か中学校でちょっと勉強ができた人たちが、高校でものすごい頑張って、やっと入ったといったものである。決して天才児ではない。

だからこそ、世間に「天才」のように扱われると、無茶な期待をされているような気持になる。

2)対処法その1

上位層と対峙してしんどくなるタイプの京大生は、何か特技を身につけたらいいと思う。

ポケモンについてめっちゃ知ってるとか、鉄道車両にやたら詳しいとか、料理ができるとか、特に5科目ではやらないが、ある程度需要があったり、人から「面白いやつ」と思ってもらえる特技があると生きやすくなると思う。

僕の場合は、当初英語ばっかり勉強していたが、これでは帰国子女とか京大上位層にまるで歯が立たないので、しんどくなってきた。よって、言語学の生成文法と言う、やってる人が少なそうな範囲に手を出し、競争相手の少ない場所で戦うようにした。すると、多少は楽になった。

しかし、生成文法界隈でも、すごい人は本当にすごいので(日本人には一人もいないが)、Cambridge の研究書とかを読んでいると、彼らと自分の違いや、彼らに比べて自分がいかに劣っているのかという思いでしんどくなってきた。

よって、ブロガーという、周りが素人の雑魚ばっかりの場所で戦うことにした。ここは周りに、Cambridge やOxford やMITで単著を出すレベルの猛者がいないので、本当に楽。とにかく敵が弱い。(これに反論できる人とかいるのか。いるとすれば、その人はCambridge とかOxfordで単著出したらいいと思う。)

それに、ブログで生成文法をやっている人はかなり少ないと思う。まさに敵なし。

比べる対象が存在しない。本当に孤独だけど、とにかく楽。

京大最上位層とバチバチ戦って、こてんぱんにされていた学生時代と比べたら、本当に楽。

3)対処法その3

先ほどは、京大内部の格差、さらには、Cambridge とかと我々凡人京大生との格差に対処する方法だった。要するに、真っ向勝負を避ける。ニッチな所で戦うのが良し。

ここからは、世間の期待値高すぎ問題への対処法。

Repeat after me.

「言い訳の天才や」

Repeat after me.

「言い訳の天才や」

OK

これで大丈夫。

世間の京大生への期待値高すぎ問題って、要するに、「頑張れなかった自分への言い訳」ではあるまいか?

だって、京大下位層を見続けてきた僕からすると、京大に入ることは、一部の天才だけにできることだとは到底思えない。

単に努力の問題であるケースが意外と多いのではなかろうか。

もちろん、努力できる家庭環境に生んでもらえるかどうかという問題はある。

けれども、その最低条件は意外と低いのではなかろうか。

実際にあったケースが、自分の部屋がない家庭で育った京大生。もちろん、住む場所がある点ですでに恵まれていると言われるかもしれないが、住む場所がある日本人は多数派だと思う。もっと言うと、自分の部屋がある家庭環境で育った人は、少なく見積もっても日本人全体の10分の1くらいはいるだろう。彼らは全員京大生くらいの努力をしたのだろうか。謎である。

だから、意外に低いはずのハードルを過度に高く言うことで、自分は、(実際にはそれほど頑張れなかったけど)もし頑張っていたとしても、絶対に京大には入れなかった、と結論付けて、頑張れなかった自分を守っている言い訳にしか聞こえない。

京大の下の方はかなり下。本当に下。関係代名詞が分からないくらい下。

でも、それなりに頑張っている。覚えるべきことを覚えて、やるべき科目を捨てずにちゃんとやって試験に臨んだ結果合格できたのだ。(捨てた人も結構いるが、それはほかの科目で取り返せるくらいその科目で努力を積んだ結果できたこと)

そして、努力させてもらえる家庭環境に生まれた人は結構多い。そういう家庭に生まれて、それでも勉強面でさぼり続けた人たちを多数見てきた僕が言うから間違いない。これだけは本当に間違いない。職業柄見てきたから、本当にここだけは間違いない。

だから、勉強面で大した努力もせず、「なんでも一瞬で覚えるんでしょ」とか「京大は努力しても無理」と言われても、「言い訳か?・実際に努力してから言えよな」としか思えなくなってしまった。なんかこう書くと、僕がクズ野郎に見えてしまう。実際そうなのかもしれないが、僕は努力している人や、してきた人を擁護して、努力してこなかった人や、しない人を突き放しているからそう映るのかもしれない。

もちろん、才能があり、努力を積む覚悟もあって、それでも家庭環境でそれが許されなかった人も多いかもしれない。

でも、そんな人が「京大卒」と聞いて、「なんでもすぐ覚えるんでしょ」と言うとは思えない。努力をする覚悟がある奴は、周りで努力を積んでる奴をよく観察しているはずだから、さすがにそんな勘違いはしないと思う。周りで本当に頑張っているやつを見て、それでもそんな勘違いをするなら、頭が弱いと思う。

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カテゴリー: Hiroaki

作成者: hiroaki

高校3年の時、模試で英語の成績が全国平均を下回っていた。そのせいか、英語の先生に「寺岡君、英語頑張っている感じなのに(笑)」と言われたこともある。 しかし、なんやかんや多読を6000万語くらい積んだら、ほとんどどんな英語文献にも対処できるようになった。(努力ってすごい) ゆえに、英語文献が読めないという人は全員努力不足ということなので、そういう人たちには、とことん冷たい。(努力を怠ると、それが正直に結果に出る) 今は、Fate Grand Order にはまってしまっていて、FGO 関連の記事が多い。