日本語で生成文法のことを書くのは非常に難しいですが、自分の知識を整理する用として。
1 ミニマリストプログラムとは?
端的に言えば、研究目標(研究プログラム)にすぎません (see Chomsky 2019a)。
「こういう方針で研究を進めよう」というレベルのものです。なので、ミニマリストという理論があるわけではありません。
さて、このミニマリスト・プログラムが掲げる目標は何でしょうか。
そもそも、生成文法では、Universal Grammar (UG) と呼ばれるものが人間の脳内に備わっていて、それが言語習得を可能にするという理論モデルを採用しています。
この UG の正体が何なのかは、時代によって違う考え方がとられてきました。
例えば、1980年代のアプローチは、principle and parameter approach (原理、パラメータ理論)と呼ばれることがあります。
この時代は、UG は principles (原理)の集合体で、値の決まっていない変数を決めていくこと=言語習得、と考えられてきました。
僕自身、これを書いて思ったのが、「日本語にするとこんなにも、わけわからなくなるんだ」です。
まあ、言ってしまえば、言語には動詞があるとか、時制があるとか、そういったことが「原理」として、最初から人間の脳内にあって、そうした要素間の語順などが、「値不明」なものとして、生まれてから決定されると考えられていました。
確かに、いろいろな言語で観察されるようなものは、生まれてから習得しているのではなく、生まれる前から、皆が持っている(=principles、原理)として考えると、生まれてからする仕事量がぐっと減らせそうです。
また、「どういう要素が言語間に共通 (=principles) で、逆にどういう要素が言語間で異なる (= parameters) のか」という、いわば「考え方のヒント」を研究者に与えてくれた点も、この principles and parameter 理論の良い点です。
確かに、こういう視点でいろいろな言語を観察すると、様々な発見がありそうです。
例えば、英語は、wh 句を文頭に出します。
(1)What did he buy?
逆に、日本語では、疑問視は元の位置にとどまるのが、(おそらく)普通です。
(2)彼は何を買ったのか?
ここから分かることは、what や「何」といった、疑問詞と呼ばれるものは、おそらく language universal (言語に普遍的なこと)である、点でしょう。
なので、「wh-句の存在」は、言語の principles (原理)の部分に分類できそうです。
逆に、疑問文にしたとき、それを文頭に出すのか、元の位置のままにおいておくのかは、言語ごとに違うといえそうです。つまり、子どもは、生まれてから、この部分のみを習得していると主張できそうです。
しかし、こうした考え方にも問題がありました。
① principles (原理)多すぎ問題
② parameters 多すぎ問題
この2点は、きちんとした論文ではなかなか触れられませんが。しかし、研究者たちは別の言い回しを用いて(e.g., theoretical burden, etc.) こうしたことに言及していました。
だって、「俺らが考え出した原理原則もパラメーターも、冷静に考えたら多すぎない?」なんて、恥ずかしくてきちんとした論文にはなかなか書けません。
Chomsky (1995: Chapter 4)